Pain−Killer

日本の男性とアメリカ人との違いはいろいろあるけれど
そのうちの一つが「男子、結構厨房に入る」ということだろう。
ハリウッドのロマンティックコメディでは、よく
男女がキッチンで並んで一緒に料理を作るようなシーンがあるけれど
それが私たちカップルの日常になるとは思ってもみなかった。
でも、“私たち”は決してそのような
ティピカルなカップルではなくて……

「ミック!!」

ロマンティックからは程遠い叫び声が
広くはないキッチンに響き渡る。

「いったいどうしたのよ、それ!」
「それって、オニオンをスライスしていただけだけど」
「指先はオニオンじゃないわ」

その言葉が暗示するとおり、まな板の上の玉ねぎは
真っ白のはずが真っ赤に染まっていた。
ようやく彼が己の指先を見遣る。
血を見た瞬間、猛烈な痛みを感じ始めるというのは
しばしば経験する人体の不思議ではあるけれど
ミックはそこから吹き出すのがまるで血糊であるかのような
きょとんとした表情を浮かべたままだった。

ぱっくりと割れた傷口の周りは
その内側と見紛うような、赤黒くごつごつとしたケロイド。
その傷を負ったとき、彼は他の皮膚感覚とともに
痛覚を失っていた。

「あーっ、もうこれどうするのよー」

現場が台所でよかったのは
すぐ傍に流し台があったことだ。
水をじゃんじゃん流して、止血を兼ねて患部を洗浄する
傷が水に触れるだけで相当の痛みを覚えるはずなのに
彼はただ困惑の表情を浮かべるだけだ。

「あ、ミック、まさか血液感染する病気とか
持ってなかったわよね!?」
「Don't so worry(大丈夫だよ)、カズエ
これから火を通すんだし、だいたい
その手のヴィルスはイエキでシメツするんだろ?」

確かに彼の言うとおりだが、後で少なくとも水洗いは必要だ。
だが、そうしている間にも、指先ということもあり
出血はなかなか止まらない。長身の彼の手を
心臓より高く上げ、ガーゼの上からきつく押さえても。
仕方がない、奥の手だ。血止めのワセリンとともに
医療用の被覆材で覆い、その上から包帯を巻く。
場所が場所だけにそう簡単には止まらないだろうけど
これで一晩は経過観察としよう。
だが、そこまでやり終えてぐったりと肩を落とした私とは対照的に
当のクランケは涼しい顔でけろりとしていた
――当たり前だ、彼には「痛み」というダメージが無いのだから。

「Kazue, come along(元気出して)」

ケガをしていない方の手を私の肩に置く。
そして真っ青な目をじっと私の瞳に向けた。

「これでも昔は痛みなんか無い方がいいって思ってた
そんなもんにビビったり泣きベソかいたりするのは
ヨワムシのすることで、オトコらしくないってね」

まだガキだったんだなぁ、と苦笑いを浮かべる。

「けど、痛みを感じないとどうなるか、判るかい?」

――先天的に痛みを感じない子供の話を聞いたことがある。
彼らは当然、ケガをしても痛くないので気づかない
骨折のような見えないケガならなおさら。
それゆえ、気づかないうちに骨折を繰り返した子供たちの関節は
しばしば肥大し、また変な方向に向いてしまっていることもある。
それを聞いて、痛みというのは人間にとって
なくてはならない感覚だと改めて感じたのだけれど

「ココロの痛みを感じなくなると
どんな残忍なことでもできるようになる。
当然さ、ココロが痛まないんだからね」

その青い目は、どこか遠くを見ているかのようだった
――ミックの過去についてははっきりとは知らない
彼はそれを語ろうとはしないし、私もまた
知らなければならないこと以外は詮索しない主義だ。

「けどそれは勇気でもオトコらしさでもなんでもない
Just a foolhardy(ただの蛮勇さ)
そんなことをし続けていればどんなトモダチも
いつか敵に回しかねない、自分で自分を追い詰めるだけなんだ」


でも、あの冴羽さんとウマの合う“悪友”なのだから
同じようなものを持っているのだろう、女好きという共通点以外に。
そして、

「If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive」

えーと、ニホンゴじゃなんて言うんだっけ、と
さっきまでの表情を崩して訊いてきた。

「『強くなければ生きていけない、
優しくなければ、生きている資格がない』」
「Oh, That's it(そう、それそれ)!
だから、痛みを覚えなきゃ優しくなれないんだよ
ハードボイルド・ヒーローの資格も
生きていく資格も無いってことさ」

そうレディキラーの微笑を私に向けるが

「だったら、いつもいつもあなたのケガの
手当てをしなきゃいけないわたしの胸の痛みにも
気づいてほしいものね」

本当は思い切り傷をひっぱたいてやりたいが
それは全く効果がないので、代わりに
無防備な脇腹を爪を立ててつねる。
Ouch!とミックは思い切り身をよじらせた。

「だいたい、こないだだって
オーブンの天板、素手で触って――」
「だってそもそもオレには
oven mitt(鍋つかみ)なんて必要ないだろ?」
「それで天板と手がくっつきかけたのはどこのどいつよ!」

確かに彼の手は痛みを失ってしまった
それゆえしばしば向う見ずなことをしようとする
まるで無痛症の子供のように。
でもミックは、痛みの記憶を失ってはいない
その傷が、どんなに私の心を抉るかも。
だから、泣き言はいうかもしれないけれど
これからも私はあなたの傷を癒し続ける
その傷は決して蛮勇などではなく
あなたの真の勇気と男らしさの証だと、信じているから。