もう負けないよ

相棒の成長は、組んでる側としても嬉しいことではある。
けど――

「いやぁ、香ちゃんのおかげだよ」
「帰ったら香さんによろしく言っといてね」

そんな声をあちこちで聞くたびに
無性に腹の中がもやもやするというか――

今ではすっかり、出入りのヤクザを追っ払う程度の
些末な依頼事なら
あいつ一人で何とかなるまでになっていた。
俺の出番があるとするならパイソンに用があるときくらい。
もちろん香にこの仕事を
一から教えてやったのは、この俺なんだが……
おかげでこの街のグレーな面々にも溶け込んでいるだけでなく
麗香やかすみといった、本来ならばライバルであるはずの
彼女たちですら、少なからず香を慕っているのだ。

あの、事あるごとに落ち込んでは
「あたしなんて撩にふさわしくないんだ」と
勝手に思いつめていた頃と比べると著しい成長だ。
ただ、あいつに欠けていたものが
きれいに埋まったというわけではない
周りと、己を見つめ直して
学べるものは学んだうえで
自分の長所を確実に伸ばしていったというべきか。
そういう「努力ができる」のが香の一番の長所なのだから。

それでも、その「成長」を素直に受け止められないのは――

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El Fuego en el Alfaque

そのとき彼らは、テレビが映し出す惨状に目を奪われた
――そのうち一人は視力を失って久しかったが
見えていた頃の習慣と、正面を向いた方が
よりそこから聞こえる音をはっきり耳にすることができる
という理由からだろう。

昼下がりの、喫茶店にとってはそれなりの稼ぎ時
それでもカウンターの内側の主夫婦と
そこに向かい合う常連の一人にとっては
全く別の時間が流れているかのようだった。

おびただしい噴煙を上げる山
その煙と同じ色に染まり、静寂に包まれた村

3人にとって、文字どおりの“灰色”一色に
塗りつぶされる前の光景は
かつて目にした景色であり、少なくとも
それに連なる風景だったはずだ。
その懐かしい風景が、今や変わり果てた姿で
まざまざと映し出されていた。

地球の正反対の、あたしたちにとっては
「忘れ去られた」貧しい小さな国

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彼が猫を嫌いな理由

――ぎゃあ、ぎゃあ
赤ん坊と“聞き紛う”ような声が外から響く
これが本物の赤ん坊ならどれだけ良かったことか
だが春先のこの時期はそうではない。
それがいつもの猫の鳴き声以上に俺の嫌悪感を掻き立てるのは
天敵が今以上に殖える合図だから、というだけではなかった。

もう何も見えないと新しい事物が入ってこない分
昔の光景が鮮明に脳裏に浮かぶことがある。
それは例えば派手なワンピースと真っ赤な口紅
ほとんどの人間にとってはモノクロームの映像でしか
知ることのない景色のはずだ。

あれは銀座通りだったろうか、俺がまだ幼い頃
この街には大勢の外国の兵士がいた。
すらりと足が長く、鼻筋の通った彼らの腕には
しばしば日本人の若い女がまとわりついていた。

当然のことながら、あの頃の俺はまだ幼稚だったのだろう
彼女たちの外見だけのきらびやかさに目を奪われたのだ。

「そんなもの、見るもんじゃありませんっ」

手を引く母の厳しい叱責が飛ぶ。
母は汚らしいものを見るような一瞥を向けると
さっと視線を翻し、息子の手をぐいと引っ張り
そのまま足早にその場を立ち去った。

彼女たちがおそらく、GI相手の娼婦だったということを
知ったのはあれからずっと後のことだった。
そして、あのときの母の態度が
行き場のない羨望交じりのものであったであろうことも。

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Pain−Killer

日本の男性とアメリカ人との違いはいろいろあるけれど
そのうちの一つが「男子、結構厨房に入る」ということだろう。
ハリウッドのロマンティックコメディでは、よく
男女がキッチンで並んで一緒に料理を作るようなシーンがあるけれど
それが私たちカップルの日常になるとは思ってもみなかった。
でも、“私たち”は決してそのような
ティピカルなカップルではなくて……

「ミック!!」

ロマンティックからは程遠い叫び声が
広くはないキッチンに響き渡る。

「いったいどうしたのよ、それ!」
「それって、オニオンをスライスしていただけだけど」
「指先はオニオンじゃないわ」

その言葉が暗示するとおり、まな板の上の玉ねぎは
真っ白のはずが真っ赤に染まっていた。
ようやく彼が己の指先を見遣る。
血を見た瞬間、猛烈な痛みを感じ始めるというのは
しばしば経験する人体の不思議ではあるけれど
ミックはそこから吹き出すのがまるで血糊であるかのような
きょとんとした表情を浮かべたままだった。

ぱっくりと割れた傷口の周りは
その内側と見紛うような、赤黒くごつごつとしたケロイド。
その傷を負ったとき、彼は他の皮膚感覚とともに
痛覚を失っていた。

「あーっ、もうこれどうするのよー」

現場が台所でよかったのは
すぐ傍に流し台があったことだ。
水をじゃんじゃん流して、止血を兼ねて患部を洗浄する
傷が水に触れるだけで相当の痛みを覚えるはずなのに
彼はただ困惑の表情を浮かべるだけだ。

「あ、ミック、まさか血液感染する病気とか
持ってなかったわよね!?」
「Don't so worry(大丈夫だよ)、カズエ
これから火を通すんだし、だいたい
その手のヴィルスはイエキでシメツするんだろ?」

確かに彼の言うとおりだが、後で少なくとも水洗いは必要だ。
だが、そうしている間にも、指先ということもあり
出血はなかなか止まらない。長身の彼の手を
心臓より高く上げ、ガーゼの上からきつく押さえても。
仕方がない、奥の手だ。血止めのワセリンとともに
医療用の被覆材で覆い、その上から包帯を巻く。
場所が場所だけにそう簡単には止まらないだろうけど
これで一晩は経過観察としよう。
だが、そこまでやり終えてぐったりと肩を落とした私とは対照的に
当のクランケは涼しい顔でけろりとしていた
――当たり前だ、彼には「痛み」というダメージが無いのだから。

「Kazue, come along(元気出して)」

ケガをしていない方の手を私の肩に置く。
そして真っ青な目をじっと私の瞳に向けた。

「これでも昔は痛みなんか無い方がいいって思ってた
そんなもんにビビったり泣きベソかいたりするのは
ヨワムシのすることで、オトコらしくないってね」

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終わりのない傾き

人探しなんてスイーパーの仕事じゃねぇ、ってのは
いったい何年言い続ければ判ってもらえるのだろうか。
それでもまだ美人探しならモチベーションも上がるが
その前に「将来の」が付いてもなぁ……
本当に美人になるかどうか保証は無いだろうし。

けれども10代の少女の家出は
その家出娘が母親になるほどの歳月が過ぎようと
未だ無くならない問題でもある。
その上、今はネットなんてものまで出ちまって
彼女たちを巡る状況はより混沌としつつあるのかもしれない。

おかげで今回は「そーゆーのパパ全く判んないでしょ」と
件の家出娘2世の手を借りる羽目になった。
同世代の少女たちは、何の当てもなく東京にたどり着いても
駅ならぬネットの掲示板を駆使して
その日の寝場所や当面の仲間などを得られるらしい。

さすがはひかり、そういうネットの情報の海の中から
(ジェイクの手も借りたようだが)その家出少女を探し当て
そこからは、こればかりは同世代の子供にしかできない裏技だが
同じ家出仲間のふりをして近づき、実際に顔を合わせ
同じような身の上にしか開かせない心の内を打ち明けてくれたようだ。

けど、依頼人はあくまで親で
その内容は見つけ次第家へと連れ戻すこと。
そのために安くはない前金をすでに貰っていて
その一部はすでに育ち盛りの栄養となっているのだ。
それをすでに棚に上げて、ひかりは噛みついてきた。

「サイッテー」

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【63/hundred】ひとづてならで

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな

アスファルトを叩くように降りしきる雨が
血の跡を洗い流していく。
こんな嵐の夜ではなかったら、きっと
ヘンゼルとグレーテルのパン屑のように
地面に残る赤黒い染みを追っていけば
容易に足取りを掴むことができただろう。
もっとも、この状況ではそんなメリットも
まさしく焼け石に水といったところだろう。

この傷の部位、そして今の自分の様子だと
おそらく、やられたのは肺だろう――最悪の殺され方だ
心臓のように即死とはならないが
息を吸ったところで、空気は肺に開いた穴から
漏れ出していく。当然、酸素の交換は滞り
じわじわと息苦しさを味わわせられた挙句に、窒息死。
ただ、肺というのは毛細血管の塊のようなものだから
そこに風穴を開けられれば出血も甚だしい。
それが気管を詰まらせれば一発でアウトだ
どちらが先でも、最も苦痛に満ちた死に方だけは免れないだろう。

だったらまだ一撃で死なせてくれた方が慈悲というものだ
――いや、それでは奴らの意図したようにはいかない
あの連中の標的は撩以外の何者ではないはず
俺は所詮、あいつをおびき寄せるための囮に過ぎない。
だから、俺を撩のもとに帰り着かせてやれる程度には
生かしておかなければ――もちろんあの狂人に
そこまで考える理性は無かっただろう
偶然にもそれが最適の結果となっただけだ
――ならばわざわざ、奴らの思惑どおりに
撩のもとに帰る必要は無い、いや、そうすべきではないはずだ。
だが奴らは遅かれ早かれ撩に牙を向くに違いないだろうし
あいつもあいつで、奴らをのさばらせるつもりはないに違いない
ならば一刻も早く、相棒にこのことを伝えないと――

雨風を凌げるこの電話ボックスの中でだけは
胸を突き破る、かつて車の窓枠だったものから
滴り落ちる血がはっきりと目視できた
――いったいどれだけの血がこの身体から失われたのだろう
そう考えると今の自分が、まるで砂時計の上半分のように思えた。
さらさらと流れ落ちていく――砂が、血が、生命が――時間が
自分に残された時間は、あと僅か
それだけは、今まで(当然)このような状況に
陥ったことがないにもかかわらず、はっきりと自覚できた。
おそらく、あいつのアパートにたどり着いたところで時間切れ
だが、まだ俺には逢って伝えなければならない相手がいるのだ。

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【72/hundred】たたずもあらなむ

高砂の をのへの桜 咲きにけり
外山のかすみ たたずもあらなむ

見上げれば桜の花が満開を迎えようとしていた。
見慣れたソメイヨシノよりやや小ぶりのその花は
花弁の端に行くにしたがって、グラデーションのように
淡い薄紅が次第に濃さを帯びてくる。その様が
まるで頬を赤らめる可憐な少女のようで――

「お前さんが桜に見とれるとはの」

池の水面に声の主の姿が揺れる。

「教授、驚かさないで下さいよ」
「ふぉっふぉっふぉ、これしきの気配が読めんようでは
スイーパー失格じゃの」

もちろん気づいていたさ、それでも
危害を加えないものだと判っていれば
敢えてスルーするのも危機察知能力のうち。

「にしても、お前さんの好みはむしろ、ほれ
ああいう豊満でゴージャスな金髪美人のような
八重桜じゃなかったんじゃないかのぉ」

と、この庭の主の老人は杖で早咲きの花を指し示した。

「どういう喩えですか【苦笑】」

――確かに、昔の自分ならああいう色鮮やかで
華やかな花にばかり眼が行っていただろう。
そして一重咲きの、淡い薄紅をほのかにまとっただけの白い花は
群れればそこそこ綺麗ではあるが
一輪一輪は貧相に見えたに違いない。
だが、今この眼に映るかすかな薄紅色の花は
清冽かつ端麗で、凛とした美しさを秘めていて――

「まぁ、齢を重ねれば立場も変わる
自ずと好みも変わってくるもんじゃろ」
「言っときますが、俺にはそういうロリコン趣味は――」
「おや、そんなことは一言も言っとらんぞ
もっとも、この花の名前は小松乙女というがの。
ところで撩、こんなところにおってよいのか?」

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