彼が猫を嫌いな理由

――ぎゃあ、ぎゃあ
赤ん坊と“聞き紛う”ような声が外から響く
これが本物の赤ん坊ならどれだけ良かったことか
だが春先のこの時期はそうではない。
それがいつもの猫の鳴き声以上に俺の嫌悪感を掻き立てるのは
天敵が今以上に殖える合図だから、というだけではなかった。

もう何も見えないと新しい事物が入ってこない分
昔の光景が鮮明に脳裏に浮かぶことがある。
それは例えば派手なワンピースと真っ赤な口紅
ほとんどの人間にとってはモノクロームの映像でしか
知ることのない景色のはずだ。

あれは銀座通りだったろうか、俺がまだ幼い頃
この街には大勢の外国の兵士がいた。
すらりと足が長く、鼻筋の通った彼らの腕には
しばしば日本人の若い女がまとわりついていた。

当然のことながら、あの頃の俺はまだ幼稚だったのだろう
彼女たちの外見だけのきらびやかさに目を奪われたのだ。

「そんなもの、見るもんじゃありませんっ」

手を引く母の厳しい叱責が飛ぶ。
母は汚らしいものを見るような一瞥を向けると
さっと視線を翻し、息子の手をぐいと引っ張り
そのまま足早にその場を立ち去った。

彼女たちがおそらく、GI相手の娼婦だったということを
知ったのはあれからずっと後のことだった。
そして、あのときの母の態度が
行き場のない羨望交じりのものであったであろうことも。
綺麗な着物は質入れされるか、食糧に消えた
今、残ったものはまるでドブネズミのようなものばかり
もちろん彼女たちのように勝者に媚びを売ることができれば
華やかな服も良い暮らしも手に入れることができたが
そんなことは矜持が許すはずもなかった。

――それからすぐのことだったか、それとも本当は
ずいぶん後のことだったのだろうか。
その二つの出来事は、因果律とは別の次元で
自分の中でしっかりと結びついてしまっていた。
きっと、今と同じ時期だったのだろう
外から赤ん坊のような泣き声が聞こえてきた。
あのとき裾を引いたのは、母だったか
それとも姉だったのか。

「ああ、あれは猫の鳴き声よ」

その声は答えた。

「この時期はいつもと違って
ああやって変な声で鳴くから
近づいちゃだめよ
ケンカに巻き込まれて引っ掻かれるから」

その夜は寝入ろうにもその鳴き声が
ひっきりなしに続いていたように覚えている。
けれども、眠りについたころには
その声も次第に小さくなっていったのだろう
なぜなら――

翌朝、玄関先から悲鳴が上がった。
姉たちの一人だったか、それとも若い女中だったか
その声に家族が皆、戸口の先を覗き込んだ。
春とはいえ、まだ夜は寒い
そこには血の気を失った、小さな赤ん坊だった亡骸
――子供の想像力は恐ろしいほど逞しいものだ
まだ男女の交わりなど理解する齢ではなかったのに
あのとき、直感的に頭に浮んだのは
かつて目にした華やかな女の姿だった。

弱いものは、強いものに媚びなければ生きられない
ある者は猫撫で声ですり寄り、ある者は泣き叫んで憐れみを乞う
さもなければ、こうして野垂れ死ぬだけ

――みゃおぅ

俺は、弱さを激しく憎んだ。

もちろん猫という生き物が
そのように弱いものではないということは判っている
ときに人間以上に逞しく、誇り高く
弱肉強食の世界を生き抜いていることは。
だが、特に子猫の
本能的に庇護を与えてしまいたくなるような
いじらしさは、同時に俺の中で
それとは正反対の感情をも呼び覚ます
決してその姿に、その声にほだされてはならないと
――見て見ぬふりをしようとしているのは
猫の弱さではない、俺の弱さだ
あのとき、あの泣き声を耳にしていながら
あれは猫じゃない、赤ん坊だと
声を上げようとしなかった幼い日の自分だ。

「――困ったものね」

と、俺ほど困ってはいないはずの美樹が言った。
その声に再び、遠い記憶の中の面影が浮かぶ
まだ10歳にも満たない子供ながら
媚びを売るでも、憐れみを乞うでもなく
真っ直ぐに俺たち屈強な兵士を見つめる
幼い頃の彼女の眼差しが。