1985.3.26 Tue.

警察にいた頃は、修羅場愁嘆場に
居合わせるのは日常茶飯事だった。
この時期は特に、学校が休みに入るから
全国から家出少年少女が東京へ
新宿へと押し寄せてくる。
そうでなくても夜ごと歌舞伎町の道端に
屯(たむろ)している未成年の常連もいた。
そんな彼らがトラブルを起こすたびに現場に急行し
署なり交番に引っ張ってきては、連絡先を聞き出し
保護者を呼び出して引き取ってもらうというのも
制服警官だった頃から仕事の内だ。

そこではずいぶん悲喜こもごもの
人間模様、家族模様というものを垣間見せてもらった。
まさかウチの子に限ってと現実に打ちひしがれる親もいれば
あまりに常習犯なのか叱りつけるでもなく
あたかも拾得物を引き取りにきたかのように
さばさばと連れて帰るような親もいた。
もちろん自分は警察官として、できる限り親身になって
彼ら親子に接するよう心がけてきたつもりだった。
でもそれも、今にして思えば
あくまで他人事に過ぎなかったのかもしれない。

俺だってたった一人の妹―香―の
たった一人の保護者だ。
でもあいつは、そんな不良少年少女とは
全く違う良い子だった。
ときどきふらっと家出してしまうのを除けば
それだって他人に迷惑をかけているというわけでなく
ましてや法に触れ、警察の世話になるようなことは
今まで一度もなかった。
それは両親の、そして自分の育て方が
間違っていなかったおかげだと、内心胸を張ってさえいた。

だが、そんな自信が今日、音を立てて崩れたのだ。
呼び出したのは警察ではなく
むしろこっちが法に触れる方である撩からだった。
もちろん、あいつに家出中の妹を
探し出してくれるよう頼んだのはこの俺だ。
だが、通い慣れたるあいつのアパートの
リビングに一歩足を踏み入れたとき
俺はこの目を疑いたくなった。

そこのソファに座っていたのは撩と
香、紛うことなき俺の妹だった。
だが――その格好が問題だった。
ぶかぶかの――おそらく相棒の――シャツを
一枚引っかけただけ、もちろんボタンはかけているが
もう3月だが寒さのぶり返すこともあるこの時期
それだけでは風邪をひきかねない――だけでなく
――判るはずだ、そういう格好が記号として
どのようなシチュエーションを暗示しているかは。

俺の無言の剣幕を察しないほど奴は鈍い男じゃない
慌てて俺をドア一つ隔てた
台所兼ダイニングに引きずり込んだ。

「槇ちゃん、天地神明に誓って言うが
俺はあの子に指一本触れちゃいないぞ!
いや、指ぐらいは触れたが……
「当たり前だ! 誰がお前なんかに……
それに、もっと他に着せるものはなかったのか?」
「だってTシャツじゃあ寒いしさぁ」
「下に何か穿くものはあるだろ!」
「俺のジーパンじゃゆるくて落っこっちまうぜ?
ベルトだって穴が合わないしさ」

そんなの千枚通し一つあれば済む話だろ!
ということまではとっさにそのときは言えなかった。

「大体、香の着てた服はどうした?
あいつのセーターは? コートは??」
「ああ、現場に置きっぱなしだ。
後で冴子が持ってきてくれるだろ」
「ってなんでそこで冴子が出てくるんだ?」
「そういや来るときついでに
着替え持ってきてくれるよう頼んどきゃよかったな」
「おい、どこに香の服を置きっぱなしにしたんだ!?
リョオ、最初から説明しろ!!」

「――とまぁ、こういうわけだ。
もちろんあの子がお前の妹だと知ったうえで
囮にしたわけじゃないぜ」
「当たり前だ!! って撩、まさか……」
「安心しろ、真っ暗闇だったし
素人娘に死体を見せるほど俺も
デリカシーが無いわけじゃないんでな」
「――おーいリョオ、アニキと何
ひそひそ話ししてるんだよ!」

リビングからあっけらかんとした声が響く。
部屋に戻れば、夕陽の差し込む窓辺で
妹はさっきのしどけない格好のまま
湯気を放つマグカップを両手で抱えて
ソファにどっかと腰を下ろして脚をばたつかせていた。
当然ながらそこには事後の艶めかしさなど微塵に感じさせない
相変わらず男勝りで、そこが兄の心配の種でもある
いつもの香がいるだけだった。

「いんや、ちょっとこれまでのいきさつを手短に、な」
「ふぅん。にしちゃずいぶん
時間がかかってたんじゃねぇの?」
「そりゃあ逢ったときからあのボスをやっつけるとこまで
話せばどうしてもそれくらいはするって」
「あっ、リョオまさかアニキに
余計なことまで話してないだろうな!」

――と、俺をそっちのけで会話を繰り広げる二人の姿が
何故だか無性に自分の中で引っかかっていた。
何かしらの違和感があったわけではない
むしろその逆――あまりにもしっくりとはまり過ぎているのだ
香の存在が、この風景の中に
あいつがここに来たことはあるはずがないのに。
にもかかわらず、初対面のはずの撩と
香は今も目の前で丁々発止のやり取りを繰り広げていた。

撩とはもう3年近い付き合いになるが
香に近づかせたことはなかった。
あいつが(いくら18歳未満は“対象外”とはいえ)
無類の女好き、というのもある。
だが、それ以上に刑事の頃からの性分だった。

父も、仕事のことを決して家に持ち帰らない刑事だった。
あの世代の男は職業を問わずそうだったのだろう
俺もそんな父の背中を追いかけ、同じ警察官になったとき
そういったやり方を同じようにしていた。
それを刑事を辞めた後も続けていただけだ。
それに――今はもう、刑事ですらない
裏の世界の片棒を担いで身過ぎする身
それは、香が知る必要のない世界だ。

なのに――あいつはひょんなことから
そこに一歩足を踏み入れ
そして、すっかり馴染んでいるように見えた
あたかも、最初からそこが居場所だったかのように――
俺が恐れていたのは、それだったのかもしれない
だから執拗にこの世界から香を遠ざけようと――
「蛙の子は蛙」という無邪気な遺伝論を信じるつもりはない
香が実は殺人犯の娘だからという偏見で
あいつを見たことは今まで一度も無いと断言していい。
ただ――護りたかっただけだ、香を
血塗られた世界から、遠ざけたかっただけだ
かつて彼女の実の父親を呑み込んだ――
たとえそのために、俺自身が血に塗れても。

「それで、香の服が戻ってくるのは
いつぐらいになりそうなんだ?」
「さぁな、しばらく現場検証なんかあるだろうし
証拠品として押収されなくても、もうしばらくは……」

そうか、なら仕方ない。

「あれ、アニキどこ行くの?」
「いったん帰って着替え取ってくる」
「槇ちゃん、キャロルで来たんじゃなかったの?」
「車でもその格好じゃ乗せられないだろ」

またしばらく撩と二人きりにさせておくのは不安だった
妹の貞操、という問題とはまた別に
このままだと、朱に交わるように赤く
血の色に染まってしまいそうで。
だが、元相棒の美人刑事を当てにしてもいられない、
これがまだ一番手っ取り早い方法のはずだ
香を少しでもきれいなままでいさせるためには。