1985.3.27 Wed.

10:00 新宿中央公園
といってもこの公園は広さ8万8000Km2(だそうだ)
待ち合わせようにも「中央公園のどこそこ」と
伝えておかなければすれ違いが生じかねない。
だからあたしが言ったのは
「噴水の前の階段のところ」。

あいつを呼び出すんだったら、新宿駅東口の伝言板に
「XYZ」と書き込むのが一番確実だろう。
でも、それを確認して依頼人と会うのはアニキの役目
だから勇気を振り絞って、直接電話を掛けた
撩のアパートに。

でも来るという確証は無かった。
そもそも来なければいけない筋合いも無いのだ
相棒の妹とはいえ、一度(厳密に言えば2度)
逢ったことのあるだけの相手なんかには。

10:10……15……20……
腕時計も、時計台も同じ速度で針は回っていく。
だいたい、時間にルーズっぽさそうだし
きっとあたしが待ちくたびれた頃
悪びれもせずにのこのこ現れるに違いない、
そう思ってもいなければ、一刻も早く
撩のことを諦めてこの場を立ち去ってしまいたいという
衝動に屈してしまいかねなかった。

10:25
ああ、最初から来る気なんてないんだ
そう思って階段から腰を上げようとしたところ、

「いったい俺が普段何時に起きると思ってるんだよ」

その言葉どおり、半目であくびを噛み殺しながら
アニキの相棒はやって来た。

「起きて飯食ってシャワー浴びて
じゃなきゃ出てこれねぇんだからな。
まぁ、これでもいつもより早く起きた方だが」

と言うと、あたしの半分隣の
同じ段にどっかと腰を下ろす。
その視線は、春休みの子供たちが遊ぶ
噴水の周囲に向けられていた。

「で、何の用だよ、こんな朝っぱらから」

そう自分勝手な時間軸を持ち出す。

「あ、ああ。昨日のお礼
そういやちゃんと言ってなかったなって思って」

昨日、あたしは人生何度目かの家出の最中
(2日という過去最長を記録)
偶然この男と行き会い、まんまと騙されて
人身売買組織退治の囮にされた挙句
撩に窮地を救われたというわけだ。

当然アニキからは、その前の家出も含め
帰ってからこっぴどく叱られた上に
「大事な妹」を危険な目に遭わせた相棒に対して
今まであたしも聞いたことのないほどの
罵詈雑言を並べ立て口汚く罵っていたのだが、

「よくあの槇ちゃんが会わせてくれたな」
「うん、『普段、人に親切にされたら
ちゃんとお礼を言いなさい、って言われたのに
命の恩人の撩にちゃんと言わなくていいのか』って」
「丸め込んだのか」

そう言われたら、筋の通らないことは嫌いなアニキだから
うんと言わざるを得ない、というのは計算のうち。

「でも、あんな目に遭わされたことについては
撩の方から謝ってもらわないと
割に合わないと思うんだけど」
「まぁまぁ、結局こうして無傷で帰れたんだから
結果オーライってことでいいだろ?」
「だいたい、あのとき通りがかったのがオレだったから
よかったけど、じゃなかったら見ず知らずの
普通の女の子を囮にするつもりだったのかよ」

思わず膝を45度向けて撩に詰め寄る。

「それについてはラッキーだったよ、おかげで
余所様に迷惑かけずに済んだし、それに
君ぐらい度胸が据わってなきゃ
そこまで巧くいってなかったかもしれないしな」

と撩は不意にくるりと顔だけあたしの方を向けた。
詰め寄ってたものだから、思わぬ至近距離に
あたしは斜め反対に向き直らざるを得なかった
じゃないと真っ赤な顔を見られてしまうから。

――ずっと、撩のことが好きだった
3年前の、ちょうど昨日から。
もちろん彼が住むのはあたしと違う世界、
もう二度と出逢うことはないだろうと
大切な初恋として、心のアルバムにしまって
いつか甘酸っぱい想い出として
そのページを開くことになるのだろうと思っていた。
でも、その「二度」が昨日突然訪れたのだ。
そこで手をこまねいていたら、きっと3度目は無い
だからアニキにも撩にも無理を言って
こうしてチャンスを作ったのだ。

待ち合わせの場所だって、3年前の今日
二人が別れた(正しくは、あたしが勝手に逃げ出した)
公園の噴水の前、だというのに――
それらしいそぶりを撩は全く見せなかった。
もしかして、すっかり忘れてしまったのかもしれない
あたしがあのときの「ぼうず」だってことなど。

「にしても、よくあの過保護の槇ちゃんが
俺と会う許可なんか出してくれたなぁ」

それはあたしもそう思う。あれからずっと
撩に逢ってみたいと言っても
駄目だの一点張りだったのだから。
けれども、あれほど濃密な接近遭遇を
果たしてしまったのだから、これからはあたしも
撩とは無関係ではいられないと思ったのだろうか。

「でも条件があるって」
「条件?」
「一人のときは撩の部屋に行かないのと
オレしかいないときに撩をうちに入れないのと」

まるでおとぎ話の子ヤギとオオカミだ
だがあの色魔なのだから仕方がない。
といっても、

「ふーん……」

と撩は、不満そうに眉根を寄せながら
顔を上下させ、あたしの上半身をくまなく眺めた
昨日、女だと言い張るあたしを
じろじろと見入ったときのように。

「心配のし過ぎだよ、槇ちゃんも
いくら女に困っても、こんなジャリん子
手ぇ出さないっての」
「誰がジャリん子だって?」
「ん?」
「オレはもうすぐハタチだってのっ!!」

と、さっき以上の至近距離で撩に詰め寄った上に
その襟首を思いきり捻り上げた。

「も、もうすぐっていつ」
「あと4日!」
「……へぇ」

それきり何も食いついてこない撩に手応えを無くし
あたしは襟首の手を解き、腰を下ろし顔を背けた。
……沈黙が痛い。
何も話すことが無ければ、もうここで
こうして撩と一緒に過ごすことはできない――

「あっ、そうだ。
アニキって仕事中、いったいどんな感じ?」
「どんな感じって言われても……」

あまり漠然としすぎていい質問とは言えそうにない。
でも、あたしと撩との共通の話題といえば
アニキぐらいしか思い浮かばなかった。
それくらい、今のあたしと撩との間には
接点が何も無かった。

「アニキ、刑事のときから仕事のこと
家じゃ全然話さなかったからさ」
「じゃあ家ではいったいどんなアニキなんだい?」

そう急に切り返されたって……

「優しい……アニキだよ。
そりゃ厳しいし、ときどき口煩いときもあるけど
でもそれは全部オレのことを思ってのことだし、
もちろんオレ以外の誰にでも優しい、自慢のアニキなんだ」

すると撩はふっと、優しげな笑みを浮かべた。

「そのとおりだよ、仕事中の槇ちゃんも。
親切でお人好しで、いつも依頼人には親身になって
まぁ、少々他人のことを簡単に信じすぎるところもあるけど
だからバランスが取れてるのかもしれないな、
俺みたいに疑り深い奴とは」

そんな表情、あのときは見たことがなかった。
確かに一見ちゃらんぽらんな女好きだったけど
でも近寄るものすべてを切り裂くような鋭さを
どこか帯びていた、そう
初めて撩があたしに気づいたときも。
でも、今の撩は違う。
もちろん触れれば切れてしまうような凄みはあのままだ
けれどもそれはあたりかまわず四六時中
ぴりぴりと放っているようなものではもうなかった。
一言でいえば、丸くなったというのかもしれないけれども
それは、アニキのおかげなのだろうか――

「なぁ、ちゃんとアニキ、役に立ってる?
足手まといに、なったりしてないかな」

一瞬、撩は憮然とした表情を浮かべたものの

「ああ、俺なんかよりよっぽど
この街のことは知り尽くしてるし、
大事な、相棒だよ」

その言葉に、胸のつかえが一つ
取れたような気がした。

「おいおい、アニキが俺と組むことに
反対なんじゃないのか?」
「そんなこと言ってたのかよ」

撩のおかげで、そしてその傍らにアニキがいるおかげで
救われている人がいるということは
あたしだって判っている、3年前のあのときから。
でも確かに、表立って賛成の意は表してないから
印象としてはそうなってしまうのだろう。

「確かに、心配なときはあるよ
アニキがケガをして帰ってきたときなんか
こんな仕事さっさとやめて
ちゃんとした堅気の、危なくない職に
就いてくれればいいのにって」

あのときの自分はそんな思いに凝り固まっていた。

「だから知りたいんだ、撩の仕事を」
「かおり……」
「きっと、知らないから怖いんだと思う。
もっとちゃんと知って、撩やアニキの仕事が
ちゃんと人の役に立ってるって判れば
素直にアニキのことを送り出してあげられる」
「でも槇村がなんて言うか――」
「もう20歳になるんだ、アニキの指図は受けない」

それは、昨夜一晩考えたことだった。
この街には、撩みたいな男が必要で
その撩にとってはアニキが必要で
だから、あたしが撩やアニキのことを
今まで以上に理解してあげられれば
きっとアニキたちの力になれると。
それに――もしかしたらこれが本音なのかもしれないけれど
純粋に興味があった、惹かれていたのだ
撩と、彼の住んでいる世界に。

「――じゃあ、いつでも遊びに来いよ
もっとも、お前のアニキがいるとき限定だが」
「うん、撩もたまにはうちでなんか食べてってよ
もちろんアニキがいるときだけだけど」

じゃあそのうちにな、と言うと
撩は階段から立ち上がった。
そして、またなと
3年前には見られなかった笑顔を向けた。