dual desire

「あー、満腹満腹」

店から出てきての香の第一声は
俺の予想しないものであった。
それは、あいつが普段は着ないワンピースに
ハイヒールに化粧までして
耳元にはスイングタイプのイヤリングを
キラキラさせているからだけではなかった。
これが俺か依頼人かのおごりであったらまだしも
俺たちが嗅ぎまわっている先方さんに
高級フレンチをエサに呼び出され
つまりは「余計な手出しはしないでもらいたい」
ということなのだから。

いくら厳選された材料を、そのうえ
一流のシェフがその持ち味を最大限に引き出すよう
手を加えているにもかかわらず、
目の前に同席する連中が、一見礼儀正しい
外交的微笑というやつで、早い話が
恫喝しているようなものだから、
どんな美味でも喉を通る気がしなくなる
たとえ堅っ苦しいネクタイをだらしなく緩めても。
が、我が愛しの相棒は、気丈にというか
能天気にというか、

「フルコースって意外とおなかに溜まるのね」

とケロリとしながら、クーパーの助手席に
身をもたれかけた。
俺なんて、メインのステーキすら
まるでゴム切れを齧っているように味気なく
こんなんだったらまだ安いスジ肉に
噛みついていた方がマシだと思ったほどだが。
すると、

「あ、撩ってもしかして
『食事は何を食べるかじゃなくて
誰と食べるかだ』なんて考えてるタイプ?」

などとずばっと正面を突いてきた。
それは紛れもなくオヤジが昔、俺が子供の頃
何度となく言って聞かせたことだった。
その言葉は、トカゲやらヘビやら
ときにロクな食糧にありつけないがための
言い訳として俺に教え込ませたものだったのかもしれない。
それでも、たとえオオハシだろうが虫だろうが
オヤジたちと食えるのであれば、それがご馳走だったし
それらと比べれば数倍マシ――といっても
その国では未だ底辺レベル――なアメリカのダイナーの
ハンバーガーも、一人で掻き込めば
込み上げるのは虚しさだけだった。
しかし、

「いくら撩と一緒でも
塩加減間違えたら美味しくないに決まってるし、
あんたがいないときに、たまたま
すっごく美味しいのが出来たら
やっぱりすっごく美味しいもの」

あんたにも食べさせなかった、とは思うけどね
と付け加えるが、その言葉はあくまでドライだ。

「だいたいねぇ、いくら愛情がたっぷり詰まってても
砂糖と塩を間違えたら、美味しくないわけないじゃない」

――それは真理だ
愛は決して一つまみの塩の代わりはしてくれない。
そこでふと思い出したのは、飲み仲間のとある中年親父
キャリアウーマンの嫁とは別居中だというが
酔った言葉の端々に未練がいつもダダ漏れだ。
けれども、どうしても味覚音痴の
彼女の手料理だけは御免蒙るそうだ。
それがつまらない意地とか以上に、復縁に対する
大きなハードルになっているのかもしれないが
どれだけベタ惚れでも、やっぱり不味いものは不味いのだ。

「でもあんな息の詰まりそうな状況で――」
「あら、あんな状況だからよ」

と、きっぱりと切り返す。

「いくら目の前には滅多にありつけないご馳走とはいえ
絵に描いたような四面楚歌、だったらご馳走に
集中でもしないとやってられないじゃない」

確かに、俺たちを取り巻くマズい状況を忘れて
ただただ高級フレンチを堪能することに没入するというのは
決して悪くないその場の切り抜け方だ。
しかし――この二つを混同するのは
拙速かつ我田引水かもしれない。が、
共に人間の根源的欲求を満たす行為だ
片や食欲、片や性欲。

また、どちらも『愛情』なるものが
ときに技術以上にその満足度を左右する
ということも同じだろう。
まぁ、必ずしもそうとは言い切れない
というのは俺の経験に基づく持論だが。
でもまさか、香も同じ意見なのだろうか?

つまりは「たとえ相手が誰であれ
“美味ければ”それでいい」ということだ。
それは、酸いも甘いも噛み分けた俺のような男が
さんざん遍歴の末に辿り着く境地であり、
少なくとも香のような、真っ当で
心優しい女が言ってはいけないことだ。
そしてそれは、あいつの“恋人”であり
ベッドを共にする相手でもある俺に対する
感情へとダイレクトに跳ね返ってもくる。

「――それにさぁ、料理には罪はないんだよ」

と、香は憤懣やるかたなさそうに眉をしかめた。

「出されるシチュエーションがどうあれ
厨房でシェフが手間暇かけて作ってくれたものだもの、
それはちゃんと味わわないと」

――愛情というのは、行為にして
初めて伝わるものでもある。
好意だけでは決して伝わらない。
それを些細な、省略は可能かもしれないが
でもそれを惜しめばそれだけ完成度が落ちるような
一手間ひと手間に換えてこその愛なのだ。
だから逆に、砂糖と塩を間違えるというような
基本的かつ致命的な間違いを犯してしまうようなら
そこに込められた愛情とやらは単なる言い訳に過ぎない。

まぁそれはベッドの上でも同じことで
「愛情深い」商売女もいれば
愛というものを言い訳に、女にただただ
苦痛を強いるだけの俺様男もいるわけで、
その辺の手抜かりはしていないつもりだ
俺も、おそらくあいつも。

「じゃあさ、帰ったら口直しに
自分でなんか作って食うかなとか思ったけど
おまぁは要らなさそうだな」
「あっ、食べる食べる!」

とクーパーの狭い天井を
突き破りそうな勢いで手を上げた。
どうせ大したものを作るつもりはない
残り物と食パンで、せいぜいがホットサンドとか。

「おいおい、さっき満腹って言ってただろ」
「いーのいーの、撩の作るものは別腹♪」

けっ、嬉しいことを言ってくれるじゃねぇか。
それがたとえ、俺の料理の腕が巧いからか
それとも他ならぬこの俺が作るものだからかは
この際敢えて不問にしといてやるが。