1985.3.28 Thu.

知られてはいけない、彼とのことは
私が彼に友人以上の感情を抱いていることは
彼もそれに気づいたうえで、憎からず思っていることは
そして、こうして彼と二人電話で
話し込んでいることも――

《よぉ、冴子》

帰宅早々、かかってきた電話は彼からだった。

《毎晩午前様だなんて、いいご身分だな》
「冗談じゃないわよ、昨日今日と
あなたのせいで残業続きなのは判ってるんでしょ」

それに、まだ厳密に言えば「午後」のうちだが
それもあと数分といったところ。
とりあえずスプリングコートを肩から脱いで
小脇に抱えると、受話器を挟んだまま両手で
電話機をキャビネットから持ち上げ
――コードレスフォンという文明の利器は
まだ普及していない頃の話だ――
ソファの上に据え直した。

《それについては礼を言ってもらっても
いいと思うんだけどな》

そう、人身売買組織の壊滅を
彼らに依頼したのは、他ならぬ刑事の私だった。

「そうね、おかげで街のゴミが一つ片づいたわ」
《そりゃどーも》
「報酬は後で槇村の口座に振り込んでおくわね」
《そんなんより撩ちゃん、冴子との
もっこり一発の方がいいんだけどなぁ》

そんな軽口が言えるのも、私と彼との仲が
いわゆる「清い」ままだからなのかもしれない
一度も死んだこともなければ、生命の危険に
晒されたことがないからこそ
「死ぬほど好き」と言えるように。

だが、体こそ「清い」ままだったが
心まではと訊かれれば
口をつぐまざるを得なかった。

私と撩が出逢ったときは
まだ槇村は刑事で、私の相棒で
撩は彼の知り合いの職業不詳の
でもおおよそ堅気とは思えない不審人物だった。
あれから約3年、その間に槇村は警察を辞め
撩の相棒に納まり、そして私の恋人になった。
その間、私と撩とは「恋人の親友」と
「親友の恋人」という友人関係を続けていた、はずだった。

けど一方で、撩は出逢ったときからずっと
私に露骨なモーションをかけ続けていた。
まだその頃は私も、なりこそ“女狐”ではあったが
中身はうぶな小娘に過ぎなかったから
ずっとそれを足蹴にし続けていたが、
その蹴りを弱め始めたのは最近になってから。

槇村とも付き合い始めて3年ほど
早い話が倦怠期というわけだ。
彼が与えてくれるものから
新鮮味は無くなりつつあった。
けれども撩が垣間見せてくれる世界は
この目には眩いばかりに輝いて見えた
その輝きの正体は背徳の幻影であったとしても。

とはいえ、もうすっかり槇村のことは
嫌気がさしてしまったというわけではない。
彼の傍にいると、ありのままの自分でいられる。
警察という組織の中で女一匹生きていく中で
彼のくれる安らぎは必要不可欠なものだった。
でも、それだけでは満足できなくて
刺激を求めて撩に秋波を送る。
要は使い分けているだけなのだ、卑怯にも
でも、どちらも今の自分にとっては
なくてはならない男(ひと)だった。
なのに、

《あ、でもおかげでこっちも
良い拾い物させてもらったしなぁ》
「何よ、拾いものって」
《槇ちゃんの妹、逢ったことある?》

槇村秀幸の妹、それはこの新宿の中でも
トップクラスの極秘事項だった。
無論、この街の情報屋のネットワークをもってすれば
彼女にまつわる情報を集めることも不可能ではない。
だが、その禁忌を犯せば彼女の保護者である兄から
筆舌に尽くせぬ恐ろしい制裁が待っているとかいないとか。
それゆえ彼らは仲間内で自粛しあい
その結果、出回る情報は裏の取れない
噂話程度ばかりだった。

「逢ったの?香さんに」
《なんだ、お前も知ってるのかよ》
「名前しか知らないのよ」
《ふぅん……》

見える、電話の向こうで
まるでチェシャ猫のように
得意げににやついている撩の表情が。

「ねぇ、教えなさいよ、どんな娘だったのか」
《それがなぁ……一言でいえば「男女」》

ふふふっ、と噛み殺した笑みが
受話器から微かに漏れる。
まぁ確かに、槇村がそのお転婆ぶりを
嘆いていたのは聞いたことがあったけど。

《背ばっかひょろひょろ高くて
髪も短くてさ、しかも言葉遣いも荒いもんだから
ありゃ立ちんぼも間違えるよなぁ。
性格だって気が強くて負けず嫌いで
だから囮として使わせてもらったけど》
「それでよく槇村から何も言われなかったわね……」
《言われたさ、こっぴどくな》
「でも、囮って――」

そう、人身売買組織の餌食になったのは
みな「商品」として価値のある美人ばかり。
撩の言う槇村の妹像とは結びつくものではなかった。

「ああ、ありゃ磨けば相当光るな」

撩も、伊達に女の尻ばかり追いかけているわけではない
それだけ数多くの女を「知って」いるのだ
組織のボスの審美眼とも相通じるものもあって当然だろう。
その撩がこうまで言い切った。
槇村の妹自慢も決して身贔屓ではなかったようだ。

《でもなぁ……》
「何よ」
《あいつ、口を開けば
『アニキが、アニキが』なんだよ。
いったいどれだけ槇ちゃんのことが好きなんだ?》

電話線の向こう、受話器を持つ撩の苦笑いが
手に取るようにありありと目に浮かぶ。
でも、その言葉そっくりそのまま
というわけでもないけど、あなたに返してあげる。
さっきから彼女のことを話すとき
ずいぶんと嬉しそうだったけど、
いったいどれだけ香さんに夢中なのよ、と。
彼女の兄好きも、この負けず嫌いのこと
かえって火に油を注ぐだけになったはずだ。
――どこか、ぞわぞわと胸騒ぎがする。

《ところで冴子、相談なんだが》

私にちょっかいを出してきながらも、その間も
撩はガールハントをやめなかったし、その傍ら
玄人女ともよろしくやっていたという。
もちろん、それについては恋人でもない私には
とやかく言う資格は無い。けれども――

《今度の金曜、槇ちゃん誘い出してくれるか?
できれば朝まで帰してくれなければ助かるんだが》

彼女たちと香さんの間には、決定的な違いがある。
素人であれ玄人であれ、撩にとっての「女」の条件は
後腐れの無いこと、それが一番だった。
だからこそ「親友の恋人」という[後腐れの塊」には
指一本触れようとしてこなかった。
でも、香さんは私以上に「後腐れの塊」のはずだ
なのに、彼はあえて一歩を踏み出そうとしていた。

「――その間に、彼女とよろしくやるつもり?」
《やだなぁ、ちょっと早めの誕生祝いに
ちらっと大人の世界を覗かせてやるだけだって》

そして私は、憎からず思っている男が
他の若い娘を口説き落とす
お膳立てをしようというのだ。
――何とも馬鹿げた喜劇じゃないの
当の本人にとっては悲劇以外の
何物でもないのだけれど。

撩のことをただの友達としか思っていないのであれば
こんなことだってわざわざ電話で伝えるほどのことではない
市内通話とはいえ、料金がかかってしまうのだから。
直接逢って話せばいい、二人きりで。
でも二人きりで逢うことに
どこかやましさを感じずにはいられないのは
彼が私にとってただの友達ではないことの裏返し、
彼もまたそうだと思っていた。

「でも彼、来るかしら」
《今度のお礼って言っときゃ、とりあえず来るさ
後は冴子の手練手管次第だぜ。ま、頼まぁ》

とだけ言うと、私の返事も聞かずに通話は切れた。

「――ばっかみたい」

もしかして、二人の男を弄んでるつもりで
いい気になっていたのかもしれない。けれども、

「二兎を追うもの一兎も得ずじゃない」

このままじゃ撩だけでなく
槇村まで失ってしまうかもしれない。

「って、金曜ってもう今日じゃないの!」

こんな真夜中、今から槇村に連絡を取るのは無理だ
とりあえず、明日の朝一で伝言板に書いておけば
電話をかけてくるよう仕向けられるはずだ。
あとは――私の手練手管次第

槇村のことは、今も変わらず愛している
今はもう彼にすがりつくしかないのだから。