1985.3.29 Fri.

香は助手席でずっと時計を気にしていた
ダッシュボードのと、自分の左腕のと。
車の時計は狂いやすいとはいうけど
それだってほんの数分の誤差だ、大した違いはない。
そして、その両方ともが0時直前を指していた
金曜から土曜に変わるか、変わらないかだ。

その1時間前も香は相変わらず
時計と睨めっこを続けていた、
歌舞伎町のディスコのカウンター席で。
まだ20歳まで2日あるとはいえ
その程度のフライングは許容範囲のうち。
これが健全な青年だったら
お姐さんが隣に侍ってくれる店でも
連れていってやるのだけれど、
生憎こいつは「男女」、というわけで
連れ出してやったのがここだった。

――でもここ、18から入れるんだけどなぁ。

やっぱりというか、もう少し若い子向けの店ではあるけど
こういうところには来たことがないわけではないという。
それでも「最近あんまり来られなかったから」と
ダンスフロアの真ん中ではじけていたのが一転、このザマだ。

「どうしたんだよ」
「撩、悪いんだけどそろそろ帰らなくちゃ」
「帰らなくちゃって、まだ11時だぜ」
「もう11時だよ、門限なんだ」

――11時って、ガキかよ。
まぁ、刑事一家の厳しい家なら
仕方がないのかもしれないが。

「学校とかバイトとかだったら大丈夫なんだけど
友達と遊びに行ったときとかは
夜の11時までに帰らなきゃならないんだ」
「帰らないと、いったいどうなるんだ?」
「……判らない、破ったことがないから」

妹も妹で、ずいぶん真面目なこと。

「って、まさか今日、俺と一緒だなんて
言ってないよな?」

外で逢う分には槇村の許しは得たものの
こうして夜、二人でとなると話は別だろう。

「ああ、それなら大丈夫
ちゃんと『友達と誕生日の前祝い』
って言っておいたから」

それに、一緒に遊び歩く男友達もいないし、と言う。

「だったらいいだろ、たまには」
「でも……」

赤や緑や、享楽的な光が飛び交う中
香だけがそれに似合わぬ浮かない顔だった。

「周り見てみろよ、ほら」

今日は金曜だ、まだまだ週末は始まったばかりだ
楽しい夜はこれからが本番、他のどの客も
誰も倦んだ顔などしていなかった。

「あそこなんてまだ高校生、いや、中学生か?
最近のガキはおませだねぇ。でも
全然帰ろうともしないぜ」

槇村がもしここにいれば、警察を辞めたことも忘れて
“補導”しかねない光景だが、そんな
遊び慣れた悪ガキもいれば、春休み真っ只中
山出しなのまる見えで新宿のディスコではしゃぐティーンもいる
その半分近くは親に断わりもなしに出てきたに違いない。

「な、みんな遊んでるだろ?
だからせめて、あと1時間!」

とおどけて手を合わせ、頭を下げる。
赤信号、みんなで渡れば怖くない
でもきっとたった一人、信号が変わるのを
待つであろう香はまだ逡巡を繰り返していた。

「ちゃんと電話しとけば平気だって」

と、顎でピンク電話を指し示す。

「10円持ってるだろな」
「当たり前だろ!」

といったところで出ないだろうがな。
槇村は今頃、あの女郎蜘蛛の網に掠め取られているはずだ。
香が受話器を持ったまま、一向に口を開こうとせず
眉だけがだんだん寄っている様子だと
どうやらうまいこといっているみたいだ。

「ダメだ、つながんない」

と言って受話器を置き直す。

「じゃあしょうがねぇな、まぁ
後で言い訳しときゃいいだろ」

どうせその本人は今頃、妹なんかよりも
さらに「イイこと」してるに違いないわけだし
どっちにしても朝まで帰ってこないのだ、
ということは香には告げられないのだが
何とか1時間の延長戦は交渉成立、したものの
楽しい時間はあっという間というか
そこからさらに2時間、3時間と
済し崩しにもできなくて、今に至るというわけだ。

香はもう充分、週末の夜を満喫したかもしれないが
俺としては不完全燃焼だった
未だ目的までは道半ばなのだから。
彼女を誘ったのは、ただの誕生日の前祝いだけじゃない
口説き落とすつもりだったのだ、香を
あのアニキにべったりなおネンネに
世の中にはもっといい男が他にいると
教えてやりたかったのだ、俺とか俺とか俺とか。
だが、じっくり話をする間もなく
あいつときたら踊りに夢中で、気がついたら時間切れ。

――好きって言っちまいなよ。
あのときからずっと、お前が俺のことを
想っていてくれてるのは判ってるんだ。
何でそれを素直に言ってくれないんだよ。

まぁ、次があるさ。そのときじっくり
攻め落としてやればいい、そして――

「――じゃあな、撩。今夜は楽しかったよ
また今度連れてってくれよな!」

と、獲物は助手席のドアを開けて
飛び立とうとしていた。
あいつら兄妹の住む団地のほど近く。
慌ててその細い手首を掴んだ。

「なぁ、なんか忘れてないか?」
「なんかって――」

そして、掴んだ手首を引き寄せ
それと連動するように顔をぐっと近づけた。

「人をタクシー代わりにしたんだから
それなりの運賃ってのが必要だろ?」
「運賃って、金取るのかよ」
「いいや、その代わりキスしてくれたら」
「やーめーろ! この色魔! ド変態!」

と、顎を手のひらで押しのけようとする。
その様が何やら子供っぽいというか
本当にあと2日で20歳なのか?
だからますます引き込まれてしまうというのに
お前が見せる、そのころころと変わる表情に。

「大体さぁ、家出の常習犯が
なんで門限厳守しようとするか?」

大人げない取っ組み合いを振りほどいて
再びフロントグラスの向こうの闇に二人、目を向ける。

「常習犯って、人を不良少女みたいに」
「そういうことだろ、世間的には」
「ただ一晩家に帰らないだけじゃないか。
行くところだって友達の家か、深夜営業のサ店だし
別に法に触れることなんてしてないんだから」
「でもアニキには心配かけてるだろうが」
「――どうしても、顔を合わせたくない
ときだってあるんだよ」

俯き加減で香がぽつりと呟いた。

「たった二人だけの家族だって喧嘩ぐらいする。
でも、そこで顔を合わせたら言っちゃいけない、
言ったら取り返しのつかないことになるようなことを
勢いで口に出しちまうかもしれない、そう思うと
もうそこから逃げ出すしかないんだよ」
「で、ほとぼりが冷めたら帰ってくるってわけか」

言ったら取り返しのつかないこと、その内容は
俺も薄々感づいていた。
――香は今も、あのときからずっと
あのわだかまりを変わらずに抱えたままだった。
たった一人の兄が、自分の実の兄ではない
その事実は、3年の歳月を以てしても
まだ受け止めきれていなかったのだ。

――そんなあいつの、背ばっかでかいはずの香の
小さく屈めた背中を見ていると
居ても立ってもいられなくなってしまう。
こいつのために何とかしてやりたい
何か力になってやりたい
自分が何もできないのであれば、せめて
ただ抱きしめてやりたい――

ああ、口説き落とすつもりだったのに
陥ちてしまったのは俺の方だ。
――好きって言っちまいなよ。
あのときからずっと、俺はお前のことを
想い続けていたんだよ。
何でそれを素直に言えないんだ。

「――香、帰るのやめにしないか」
「リョオ?」

正直なところ、再びイグニッションキーを
回してしまいたかったところだ。

「帰したくないんだ」

と言えば、鈍いあいつだって気づくはずだ。

「じょ、冗談……だろ」
「本気で付き合うって言ったら?」
「リョオ、判ってるのかよ!
オレのアニキが誰かって!!」

ああ、判ってるさ
じゃなければ遊びでそんなこと言ったりしない。
日頃ナンパで声をかけるような相手と
一緒にされちゃ困る。なんだったら
槇村に土下座したってかまわない。
それくらい本気なんだ、真剣なんだよ。

もし、香が小さくうなずいてくれさえすれば
このままハンドブレーキを外して
彼女を連れ去ってしまうつもりだった。なのに、

「――タイムアップだ」

俺は運転席から降りると助手席へと回り
恭しく香のドアを開けた。
彼女の時計の針は0時ちょうどを指していた。
これ以上シンデレラを惑わすのも罪作りなだけだ。

「おやすみ、香ちゃん
気ぃつけて帰れよ」

と、無人なのは確実な部屋へと香を送り出した。
それに気がついたとき、あいつがどんな顔をするだろう
というのを微かな楽しみにして。

「この次は帰してやらないからな!」

そう本音を冗談でまぶした。

――迂闊なことは言うもんじゃない
まさか、本当にこの「次」
香が帰る場所を失くしてしまうなんて――

TUBE GOOD NITE BABY 歌詞 - 歌ネット