1985.3.30 Sat.

「――おい、こんなところで寝てると
風邪ひくぞ」
「あ、アニキ、おかえり」

深夜近い帰宅だというのに、妹はというと
風呂だけはしっかり入ったのだろう
パジャマの上にカーディガンを羽織っただけという
無防備な姿で、玄関から入ってすぐの
ダイニングテーブルの上に突っ伏していた。

もし彼女に何かしらの下心を抱いていたら
その姿は目の毒以外の何物でもないはずだ。
だが、俺がそれを目にしてまず思ったことは
今着ているコートを掛けてやりたいということだけだった。

「早く寝ろよ。春休みだからって夜更かししてると
休みなんかすぐ終わっちまうんだからな」
「はいはい、アニキもな。ったく
二晩連続で撩と付き合うことなんてないのに」

と言うと香は立ち上がって、軽く伸びをして
歯磨きしに洗面所へと消えていった。
――昨夜は撩にアリバイを頼んでおいたのだ。
だが、あいつのからかうような口ぶりに
一抹の不安がよぎる――まさか
昨夜の嘘がばれていないよな?

今夜は正真正銘、奴にいつもの店に呼び出されたのだ。

「――なぁ槇村、香には香の
お前にはお前の人生があるんだぜ」

撩のその台詞が、さっきから頭の中で鳴り響いていた。

「マシュウとマリラみたいに、二人仲良く
共白髪まで、っていうんだったらいいが
そのつもりはないんだろう?」
「『赤毛のアン』かよ」
「香だって、あと何年かしたら
『紹介したい人がいるの』って誰か連れてくるんだぜ。
そのときもずっと独りでいるつもりかよ」

「――俺の人生、か」

目の前のコップには、香が酔い覚ましに
水を注いでくれていた。
だが、もう少し酩酊していたくて
戸棚から酒瓶を取り出すと、そこに注ぎ足した。
透明なコップがみるみる琥珀色に染まる。

――俺の人生、そんなものは
無いも同然だった、14で父を亡くしてから。
刑事になるというたった一つのわがままを除いては
俺はずっと香の幸福のために生きてきたのだ。

もっとも、自分の幸福――結婚について
何も考えていなかったわけではなかった。
いや、おそらくは同年代の人並み以上に
考えていたこともあった。だがそれも
「香に義姉――『女親』――を与えてやりたい」
という、まるで子持ちの男やもめの発想だった。
そんな魂胆は世の女性たちには受け入れられず
こればかりは今の相棒同様に連敗続きだった。
いつもいつも、「私と妹さんとどっちが大事なのよ!」と
同じ捨て台詞を浴びせられて。

だからいつしか、俺にとって結婚というものは
妹との二者択一となってしまっていた。
香を切り捨てなければ嫁を貰えないのであれば
嫁なんて一生貰えなくてもいいと。
そんな諦め気分の頃に出逢ったのが冴子だった。

初めてかもしれない、妹にとっての母親代わりと
いうことを抜きにして、誰かを好きになったのは。
だからこそどこかで、心苦しさを覚えずにはいられなかった
まるで香を裏切ってしまっているかのようで。

――そんな気持ちが飛び出してしまったのかもしれない
あのとき――

「――もう19とはいえ、たった一人の妹を
残して結婚するなんて……
妹なんだ、たった一人の俺の妹なんだぞ!」

もうすでにだいぶ酔っていた上に、撩を呼び出して
ベンチで缶ビールを酌み交わしながら叫んだ言葉。
ああ、あのときは確か冴子の誕生日の前後だった
彼女も酔っていたとはいえ、結婚を迫られてしまったのだ
それが酒の力を借りなければ曝け出せない
彼女の本音だったのだろう。
そして、俺の言葉も――

「たく、なんの話かと思えばそんなことか……
お前は香に惚れているのさ。それだけのことさ」

その撩の言葉に二の句が継げなかったのは
図星を指されたからではない
世間一般が、俺たち兄妹のことを
どのような色眼鏡で見ているかを
突き付けられてしまったからだ。

「じゃあアニキ、おやすみー。早く寝ろよ」

洗面所から香が出てきた。
手を振りながら自室へ向かう。
俺もまたその背中に手を振った。

俺が香に惚れてる? 冗談じゃない
確かに俺にとってあいつは一番大切な存在ではある
例えば……荒れ狂う嵐の海で
冴子と香のどちらかしか助けられないとすれば
冴子には悪いが、俺は香を選ぶだろう
もちろん、兄として。
だが、そんな「兄」としては度を越した愛情が
世間のそのような誤解を招いてしまうのかもしれない。

だが、もしさっき撩が言ってたように
あいつがいつか、好きな男を連れてきたとしても
俺は嫉妬を覚えるだろうか……いや、ないな
香に相応しい男だったら、笑って託してやるさ
まぁ、撩みたいな奴なら願い下げだが……
ってまさかあいつ、遠回しに
探りを入れてきたわけじゃないだろうな。

そもそも、香の恋人に嫉妬して
張り合う必要もないはずだ、
あいつが嫁に行こうが、俺のたった一人の妹で
そして俺はたった一人の兄であることは
未来永劫変わりがないのだから。

――そう、変わらないはずなら
何もしがみつくことは無いのだ。
そして、撩の言うように香は香の
俺は俺の人生を歩んでいけばいいだけのこと。
あいつだって、明日になれば20歳だ
もう俺が守ってやる必要もなくなる。

でも――だからといって、すぐにも
冴子との将来を考えることはできなかった。
彼女は刑事で、キャリアのエリートで
一方の俺は裏稼業の片棒を担いで生きている男だ
一緒になれるわけがない。
警察組織が、その一員の結婚相手の身元調査に
どれだけの労力を注いでいるかは
その末端にいた俺も話には聞いていた。
――そんなことさえ気づいていなかったというのは
どれだけあのとき、彼女との結婚を
真剣に考えていなかったか判るというものだ。
目の前のコップの中身を一気にあおる。

あいつも、今は仕事が一番大切でも
いつかは誰かと幸福になりたいと思っているはずだ。
でも、それは俺では無理なのだ。
冴子が刑事の仕事を辞めない限り、俺とは一緒になれない
そして、彼女がそれを選ぶとは到底考えられなかった。

「――潮時、なのか?」

今まで人目を忍んで逢瀬を続けていたけれども
それもこれからは考えなければならないだろう。
――いや、それでも冴子を独りにはできなかった。
強そうに見えて、あいつは脆い女だ
それは俺が一番――俺だけが知っている
だから見捨てるわけにはいかないのだ。

じゃあ、この仕事を辞めて堅気の世界に戻るのか?
撩を見捨てて――やはり、あいつを独りにするわけにもいかない
おどけた仮面の下に隠した、いつ箍が外れるかもしれない
底知れぬ闇を、抑え込むのは俺の役目だからだ。

「おいおい、今度は撩と冴子の天秤かよ」

苦笑いを浮かべながら、空になったコップに
ウイスキーを注ぐ。今度はストレートだ。

とかく、人の世話を焼くのが俺の宿命のようだ。
ようやく妹の世話焼きを卒業しようと思ったのに
このザマだ。
自分の人生を生きようと思っても
いつかどちらかを選ばなければならないだろう。
だが、今はどちらも選べないのだ――

まぁいいさ。
時計の針は0時を回っていた。
腕時計の日付表示はすでに31日を示している。

「ハッピーバースデイ、香」

コップを時計に向かって軽く掲げた。
せめて今日一日だけは、あいつのために生きよう
自分の人生は、明日になってから考えればいい。
明日になればもう4月、俺みたいな自由業には関係ないが
何かが新しく始まる、そんな季節。
でも、その前にしなければならないことがあった。

ポケットを探り、手帳を取り出す。
31日のところには丸が付けられ、その横に
香の字で「アニキ、この日は仕事なんか
予定に入れるな!!」と書き込まれていた。
なので、仕事の予定はそのわきに追いやられていた
「7時、シルキィクラブ」と。

本当は今夜、香との初めての一杯を
酌み交わしたかったのだけれど
――もちろん、こんな安酒でなくとっておきので
それはまた先のことになりそうだ。