1985.3.31 Sun.

「あ、おはようアニキ」
「おはよ……って、朝飯お前が作ったのか?」

普段の槇村家の朝食は由緒正しきご飯なのだが
日曜だけは洋風にパン食になる。
もっとも、トーストだけでは足りないので
ゆで卵か目玉焼きに、ハムなどの簡単な付け合せもつく。

「今日ぐらい俺が作ったのに」
「いいの、昨夜も遅かったみたいだし」

流しの横の食器籠に、きちんと洗って
伏せてあったグラスで、大体の察しはついた。

「ほらっ、パンも焼けたよ」

とオーブントースターから取り出した食パンのうち
一枚をアニキに手渡すと
インスタントコーヒーのマグを二つ、食卓に置いた。

「いただきまーす」
「いただきます」
「そうだ、撩今日来るって言ってた?」

そう言いながらマーガリンを手渡す。
それは数日前、アニキに
伝えてくれるよう頼んでおいたことだった。

「ああ、来るってさ」
「ホント!? じゃあ何がいいかな
ねぇ、撩って何か好物ある?」
「さぁ……持っていったもんなら大抵
きれいに平らげたが、なぁ香」
「んん?」

急にその鋭い眼差しをあたしに向けられたから
危うくパンが喉に詰まりそうになった。

「なんで今年はあいつを呼ぶんだ?」

無論、下心が無いと言えば嘘になる。
その辺のあたしのやましい心は
アニキほどの元・名刑事なら本気を出せば
簡単に見透かされてしまうだろう。でも、

「アニキにとって撩は、ただの仕事だけの付き合い?」
「いや……それだけじゃないが――」

そういえば、アニキにとって親友と呼べる人が
今までいた様子はあたしの目には映らなかった。
もちろんあたしの知らないところでいたのかもしれないけれど
学生の頃から、放課後はバイトかあたしの世話かで
あたしみたいな人並みの青春というものを
今にして思えば送ってこなかったんじゃないかと思う。
そんなアニキが、今までことあるごとに
撩のことをあたしに言って聞かせていたのだ
やれあいつは凄い男だ、やれあいつの女好きには困った、等々。
そんな、アニキにとっての親友は
あたし自身の気持ちを別にしても
あたしにとっても大切な存在であることには違いなかった。

「今までアニキがお世話になってきたんだから、さ」

と言われてアニキは、少々憮然とした顔で
マグカップを口に運んでいた。

「じゃあもし――俺が香に
逢わせたい人がいるって言ったら?」

まるで、聞き取れなくてもかまわないと
言わんばかりの小声でアニキはそう口にしたけれど
それが聞こえないほど耳が遠いわけじゃない。

「えっ、アニキそんな人いるの!?
なに、もしかしてカノジョ??
ねぇ、齢いくつ? 美人?」

と、考えるより先にまくしたてられる
あたしのマシンガンを、アニキは朝刊で遮った。

「いや――もしそういう人がいればって話で
まだ全然何も決まってないが――」

そう決まり悪そうにおずおずと言い返すアニキの表情は
あたしが今まで見たこともないものだった。

一回り近く年上の兄は、今でこそ
背丈は結構近づいてきたものの
あたしよりずっとずっと「大人」だった。
でも、今の目の前のアニキは
あたしとさほど目の高さの違わない、普通の男の人。

「だいたい、アニキだってもういい齢なんだよ
来年で30だろ? もう少し焦った方がいいって。
ずーっとオレのことばっかり心配してるけど
自分だってこのままじゃ『行かずヤモメ』だぜ?」
「そう……か?」
「そうだよ」

――ああ、これが「ハタチになる」ってことなのかもしれない
大人という点では、もうアニキもあたしも対等なのだから
もちろんアニキは大人の先輩ではあるのだけれど。

「お前だって、これからどうするんだ?
明日からもう3年だろ? 来年の今頃は社会人なんだからな」
「うん、それだったら多分、奨学金貰った病院に
お礼奉公することになると思う、3年ぐらい」
「そうか……来年はもう香も白衣の天使か……
父さんと母さんにもお前の白衣姿、見せてやりたかったな――」
「あーもう、そこで泣かない泣かないっ」

泣き顔を隠すように立てた新聞の一面の
天気予報がふと目に入った。

「あ、今夜雨降るかもしれないって」
「今夜――あ、香、すまん!」

新聞をばさりとハムエッグの上に置くと
アニキは手を合わせ頭を下げた。

「今夜、予定が入って少し遅くなる」
「予定? 何時」
「7時だ」
「仕事?」
「ああ」
「ふぅん……」

アニキにとっての仕事が世のため、人のため
――警察を辞めてからも――である以上、
それは仕方のないことだというのは
父が生きていたときから骨身にしみていた、
手帳にはこっそりあんなことを書き込んでおいても。

「じゃあしょうがないよな。
でも昼間は空いてる?」
「昼間? なら空いてるが」
「撩がさ、誕生日だから
なんでも好きなもの買ってやるって」

当の本人はこうも言っていた
この前の仕切り直しだと。
あのときは同じことを言われて
まんまとあいつの囮にされてしまったのだけど。

「だから宇勢丹で思いきり
高いもの買わせちゃおうかなぁって♪」

でも、良いところに行く以上
こっちも良い格好をしていかないと見くびられる。
だから、一張羅を引っ張り出してきたのだ
カラスみたいな真っ黒の、DCブランドのコート
あたしにはおいそれと手の出せない値段だったのだけど
高校の友達の伝手で強引に(もちろん割引価格で)
買わされてしまったものだけど、これで
箪笥の肥やしにされずに済みそうだ。

「あ、だったらアニキも撩にたかっちゃえば?
プレゼント、あいつに金出させて」
「いや――俺のはもう用意してある」
「えっ? 何? どういうの?」
「それは、そのときのお楽しみだ」

アニキがやんわりと笑えば
あたしとしてはもう何も言えなくなってしまう。

「――なるべく早く済ませて帰る。だから――」
「判ってる、勝手に撩を上げるな、だろ?」
「ああ、あいつのことは俺が迎えに行くよ」
「約束だよ、早く帰ってくるって」

と、小指を差し出した。
子供じみてるかもしれないけれど
そのときはそうしたかったのだ。
アニキも、小指だけ立てた右手を近づけ
あたしの小指に絡めた。

ゆーびきーりげんまん
うっそついたらはりせんぼんのーますっ
ゆびきったっ

「待ち合わせは何時だ?」

少し照れながらアニキが指を解いた。

「3時に中央公園」

撩のやつがもう少し早起きしてくれたらなぁ
と思わずこぼす。

「じゃあ、俺は午前中
少し行くところがあるから」

と、自分の皿の上をきれいに片づけて
アニキは席を立った。

「判った。掃除はオレがやっとくよ」
「ああ、頼むよ」

とアニキは微笑むと
身支度のために洗面所へ消えていった。
そんな、いつもと同じ日曜の朝。