蓼食う虫

大きな塗り椀の蓋を開けた瞬間、香の顔色が変わった。

「うわぁ……」

と安っぽいグルメリポーターのような歓声を上げたが
その眼は喜色に染まってはいなかった。
小顔のあいつの顔程もある大きな椀の中は
紅玉と黄金の2色に塗り分けられたかのようだというのに。

何てことのない漁師町の小さな食堂。

今回もまた何てことのない依頼だった。
それがどんなものかというのは
俺たちにも守秘義務というのはあるし
どうせ知ったところでつまらない話だ。
ただ、わざわざ新宿から足労をかけたということで
仕事も後は後始末をつけるだけといったところで
こうして報酬とは別に、ご褒美にありつけたというわけだ。

まさに文字どおりの「紅の玉」
ルビーを削り出して丸い珠にしたかのような
艶々とした輝きを放つのは、香の大好物のイクラ。
そのどれもパック寿司で見かけるのより大ぶりで
舌先で潰した瞬間、得も言われぬ弾力とともに
口中に磯の香がふわっと広がることだろう。
一方、それよりはややマット感があるが
あたかも柔らかな黄金といった感じで椀の半分を占めるのは
いくらに勝るとも劣らぬ――いや、むしろ値段や格では
それ以上の、採れたての新鮮なウニなのだが
香はそれが苦手だった。

「しょうがねぇだろ、おまぁが
『旨そう』だなんて言っちまったんだから」

海鮮丼に箸をつけず、ただただ
穴が開くほどじっと見ているだけの隣の相棒を
肘で突ついた。

「でも……」
「だいたいなんでそんなこと言えるんだよ
自分が食って旨いと思わないものに」

そう、その瞬間を俺はこの目で直接見ていた。
数日前、漁港の作業場を通りがかり
そこで漁師のおかみさんたちが黒いトゲトゲの中から
器用にこの金色をくりぬいているのを見かけたときに。

「だって……」

と、目の前で満面の笑みを浮かべる依頼人の関係者に
聞こえないよう小声で言い訳を始めた。
彼らはこの豪華な海の幸を嫌う人間はいないということを
露ほども疑っていなかった。

「世の中じゃウニってご馳走なわけでしょ。
だからテレビでも雑誌でも、これが映るたびに
必ずみんな『美味しそう』って言うわけじゃない?
だからそういうのをずっと見せられると
『ウニ=美味しそう、美味しい』って思い込んじゃうのよ」

そうやって、実物を味わうより先に
そのような「一般的」な価値基準が植えつけられてしまう。
それと個々人の嗜好は必ずしも相容れない
ときにそれを裏切ることがあるとしても。

「つまりは洗脳ってわけだ」
「そうそう!」

だが、都会で手に、そして口に入るウニといったら
それそのものよりも保存料のミョウバンの方が
舌についてしまい、それで苦手意識を
持ってしまうこともあるという。
まぁ、俺はそれほど気にはならないんだが。
それよりよっぽど不味いもの
人間の食いもんじゃねぇだろってものも
さんざん口にしてきたってのもあるが。

「でも、これならすぐそこで採れたもんだから
きっとそんな不味くはないんじゃないか?」
「みーんなそう言うのよね
『本当に美味しいウニを食べたらきっと違う』って」

と口を尖らす。
ああ、これは前もそんなことを言われて
期待を裏切られた顔だ。

「なんでみんなこれをあんなに有難がるのか
あたしにはちっとも判んないわ。こんなゲテモノ」
「おい、それはウニに失礼だろ」
「あら、だってこれってウニの内臓でしょ」
「だったらスジコと変わんないだろうが」

ともかく、香にとってはこれはホヤやナマコと
同列のものらしい。いや、それも酒飲みにはとっては美味だが。

「けどな、世の中にはイクラが嫌いだって奴もいるんだぞ」
「うそ!」

信じられないといった表情を香は俺に向けてきた。
そりゃそうだろう、俺にとっての
「女嫌いの成年男子」と同じようなものなのだから。

「あのプチプチ感が嫌いなんだとさ
なんかグロテスクで、いかにも卵を
生命の源を潰してるみたいで」
「えーっ……」

当然、イクラ好きにはあのプチプチ感は欠かせないものだろう。
だが一方で、嫌いな奴らのその理屈も判らないわけでもないようだ
香の表情に困惑の色が広がる。

「だから、蓼食う虫も好き好きっていうだろ?
イクラが嫌いな奴もいれば、ウニが嫌いな奴だって
いていいんじゃねぇの?」

確かにそれは、世間では変わり者扱いされるだろう。
だが好みは人それぞれ、女が嫌いで
それよりは男が好きだって男も確かに存在するんだし
色事そのものまっぴらごめんという奴だって
おそらくいるに違いない、逢ったことはないが。

「だからさ――」

と、香の椀を掴んだ。そして俺の椀の上に持ってくると
香のの中に敷き詰められたうちのウニだけを
俺の椀の中にバラバラと落とす。その代わりに
今度は俺のを持ち上げると、同じように
椀の中のイクラというイクラを全部
香の椀の中に移し替えた。

「――いいの?」
「いいに決まってんだろ、普通
イクラ丼よりウニ丼の方が高級なんだから」

そして俺はもちろん、イクラよりウニの方が好きという
比較的多数派の嗜好の持ち主だ。まぁ香ほど
イクラやウニに目の色を変えるというわけでもないが。
もちろんそれよりもっこり美人の方が好きに決まっているし
それ以上に――香の方が旨そうに見えるって時点で
俺もまた「蓼食う虫」なのだろう。

「じゃ、いっただっきまーす♪」

と無作法にも塗り椀を持ち上げ
それにかぶりつかんばかりの勢いで
イクラ丼をがっつく香の旨そうな横顔が
俺にとって山盛りのウニ以上のご馳走だった。