1994.11/プレママとプレパパと果物と

ピンポーン
「はーい」
《カエル急便でーす》

インターホンに呼び出されるままにほいほいと
玄関先に向かうあいつの危機感の無さに
溜息をつきたくなるのはいつものこと。
わざわざ制服を着て襲いに来る奴もいるというのに。
もっとも、玄関といってもエレベーターも無い
6階まで上がってこなければならないので
俺たち個人に恨みを持つ連中以外は
わざわざそこまでしないだろうけれども。
それでも――

(おまぁ一人の身体じゃねぇんだぞ)

と口に出せば惚気になりかねないのだが。
リビングに戻ってきた香の姿に
思わずソファから飛び起きた。

「おい! んな重い物――」
「大丈夫よ、もう安定期に入ったんだし
それにこのくらい、荷物の内に入らないって」

そうは言うものの、あいつが両手いっぱいに抱えているのは
そこに書かれている中身よりも
「可愛がってあげてください」の書き置き付きで
捨て猫でも入っている方が似合いそうな
段ボールのミカン箱。

「それに――ミカンと見せかけて
ドカン、かもしれないぜ」
「まっさかw」

確かにそれは心配のし過ぎだろう。
鼻腔をくすぐるのは、火薬の匂いでも
妙な生臭さでもなく、つんと来るほどの清冽な――

「ほら――」

香がホチキスの針の化け物のような留め具を外すと
まだ青味の残る小玉が箱いっぱいにごろごろ。

「でも、妊婦に柑橘って短絡的じゃねぇか?」
「あ――それにもう、つわりの時期って終わっちゃったし」

終わったどころか、香の場合つわりらしいつわりに
苦しめられることなく無事に安定期を迎えていた。
箱の合わせ目に貼られていた伝票を確かめる。
それは当然、開けるときに破られてしまっていたが
その破れ目を合わせる。そこに書かれていた
差出人の名前は――ハンコ屋とは世を忍ぶ仮の姿
その裏の顔は腕利きのニンベン師(偽造屋)のシゲだった。

――ガキがいりゃそれくらい判るだろ

と口に出しそうになったときに、ふっと気がついた
あいつ、そもそも家族とかいたか?
――情報屋連中のプライヴェートを
勝手に突つき回るのはルール違反。
その辺はお互い様なのだから。

「でも、せっかくだし――」
と言いかけたところで、香がすがるような眼で俺を見た
裏の人間から贈られたものを、素直に貰ってもいいものかと。

香の妊娠とは関係なしに、元から我が家に
果物が絶えることはなかった。
俺が菓子の類が苦手なこともあって
食後のデザートはいつも季節のフルーツだ。
今はブドウがひと段落し、リンゴや柿の鮮やかな赤が食卓を彩る。
そして冬が近づくにつれ、そろそろミカンといったところ
おかげで俺もいつの間にか、果物で季節が判るようになっていた。
殊に柑橘類はとりわけ香が好きで、ミカンの時期が終わっても
いよかん、はっさく、甘夏と切れ目なく続くわけだが

「有難く頂いとこうぜ。どうせそのうち
箱買いするつもりだったんだろ」
「うん――」
「なら、運び上げる手間も省けたし、よかったよかった」
「でも――」
「なーに、シゲには後で逢ったら
ちゃんと礼を言っとけばいいさ」

そこまで言って、やっと香は納得したようだ。
確かに、かつての俺ならそんな付け届け
一も二もなく突き返していただろう。
言うなれば「毒まんじゅう」ならぬ「毒ミカン」
余計な借りはごめんだと。
だが、このだらしのない根無し草がいよいよ
この街に根を下ろさざるを得なくなったのだ
そんな水臭いことは言ってはいられなくなる。
貸しはいつの間にか借りになり、巡りめぐって
なぜか他の誰かの貸しになっていたりする。
収支計算もごっちゃごちゃ、これが本当の「お互い様」だ。

「じゃあさっそく食べちゃおう♪
ちょうど小腹が空いてたし、撩も食べるでしょ?」
「あ、ああ」
「これくらいあれば一日2,3個食べても大丈夫よね」
「あんま食い過ぎんなよ。赤ん坊の顔まで黄色くなる」

こうして人という点と点が線となり
それが雁字搦まって、まさしく“ネットワーク”になる。
その網がいつか俺たちや――こんなことを今から考えたくもないが
俺たちの子が、真っ逆さまに堕ちてしまいそうになったときに
救ってくれることを、どこかで期待しながら。

妊娠中の果物摂取、子供の知能向上に影響か - WSJ