1984.5/mezzotint

まさか彼に美術鑑賞の趣味があるとは思わなかった。
槇村が刑事を辞めて、私は警察に残り
FBIでの研修のために渡米し一年。
帰国後、初めての“デート”がここだった。

「君ならこういうのは好きだと思ったんだがな」

と、私の目を見ようともせず
壁にかかったモノクロの素描のような絵を
凝視しながら槇村は言った。

「あなたこそ――」

意外、といっては失礼かもしれない。
確かに彼にはインテリ趣味のイメージはあった
署での待機中も、昇進試験の参考書以外の
小難しい本をいつも手にしていた。
でも読書と絵とでは……

「絵だって『読む』ものでもあるからね」

そう、まるで読心術を使ったかのように
私の内心の問いにずばりと答えた。

「寓意画なんか、描かれていたものが表す意味を
知れば何重にも面白いし、そうでなくてもたとえば
肖像画だったら、表情から人物の感情を
読み解いていくことは、取り調べにも役に立つだろ?」

――ああ、でも俺にはもうそんな必要は無いかと
半ば嘆くように呟くので、

「そんなことないわよ、今だって人を見る眼は
もしかしたら警察にいたとき以上に必要でしょ?
今度は見誤れば生命は無いかもしれないんだし」
「――そうだな、冴子」

そしてようやく私の方へと目を向けた。

「それにしても、ここ――」

今日連れてこられたのは新宿駅にもほど近い画廊
そこで展覧会が開かれているようなのだが

「高校時代の友人が初めて個展を開くっていうんでね
大した手土産も用意できないけど、とりあえず
サクラ程度なら役に立てるかなって」
「高校時代の友人、ねぇ……」

他の刑事たちと違って、彼はそういう話をほとんどしなかった。
それを裏付けるように、かつての同僚から聞いた話を
繋ぎ合わせれば、早くに両親を亡くし幼い妹を抱え
彼女の面倒を見るのに一生懸命で、同年代の若者らしい
青春の日々を送るどころではなかったという。

「あいつは昔から絵が上手で、というより絵描きバカで
それで周囲から少し浮いてしまうところもあったんだが
あぶれ者同士、気が合ってね」

と槇村が視線を送る先には、そのかつての「絵描きバカ」が
同年代らしい、にしてもなかなか羽振りの良さそうな
連中に囲まれていた。きっと彼らも同級生なのだろうけど
その当時は未来の画家の熱中ぶりを遠巻きに
半ば軽んじるように眺めていたのだろう。でもその彼が
いよいよ成功を収めようとしている段になって
手のひらを返すように「旧交」を温める、よくある話だ。

「でもてっきりあいつ、油絵とかに進むと思っていたけど
まさか銅版画の道を選ぶとはな」
「えっ、これ版画なの?」

確かに壁にかかった絵は全てモノクロだ。
だがこれらの繊細なタッチが
直接紙の上に描かれたものではないと
にわかに信じられなかった。

「ああ、メゾチントっていうらしい。
もともと、写真とかが無かった時代に
油絵の複製を大量生産するための手法だったから
こういうリアルなタッチは得意なんだろうな」

といっても全部あいつの受け売りなんだがな
と槇村は笑う。

「最初に銅板全体に細かい傷を付けるんだ。
その傷の中にインクが入るから、そこは真っ黒になる
それを下地として、今度は白くなる部分を
その白さに応じて削り取っていくんだ」
「えっ!?」

今日二度目の驚きの声。というのも
今見ている絵のほとんどが、普通のスケッチのように
白い背景のように人物や静物が描かれているのだ。
ということは、この白は「何も描かれていない」のではなく
本来の背景である黒を懸命に削り取った跡――

「だから――ほら、よく見てみろよ」

と槇村はその白い背景を指差した。

「一見白に見えるけれど、よく見てみると
ごくごく淡いグレーだろ?」

それがよく判るように、黒のところを手で遮った。

「『白か黒か』なんて言うけれど
それは絶対じゃない、相対なんだよ。
グレーだって、それより濃いグレーを前にすれば
『白』になり、淡いグレーと対比させれば
『黒』になるんだ」

そう槇村ははっきりと言い切る。
それは必ずしも、銅版画のことを
言っているだけではない――槇村は
そのつもりで言っているはずだ。
一年前、彼は悩んでいた
警察を辞職し、他に行き場が無い中
誘われるままに撩の相棒に――殺し屋の片棒担ぎに
なることは、親子二代の刑事としては
葛藤するのは当然だった。
でも、今の彼は違う。
確かに今の槇村は「白」ではないかもしれない
だが、それよりも濃い闇を前にすれば
彼らは間違いなく「白」に映るはずだ。
そしてその「白」に誇りを持っている
そもそも警察ですら「純白」とはいえないのだから。

同級生の人垣の中、今日の主役が
ちらりとこちらを見遣っていた。
もちろん視線に気づかない槇村ではない。
だが、一とおり見て回った後
彼は一瞥することもなく、画廊を出て行こうとする。

「いいの?」
「ああ、人もだいぶ集まってきたようだし
もうサクラは用無しだろうな」

そうだ、この場では彼はむしろ「黒」なのかもしれない。

「いいんだぞ、冴子。気に入ったんだったら
残ってあいつに挨拶してきても」
「いいの」

と言って私は槇村の腕に縋りつく
そして彼と歩調を揃えた。
警察官でありながら、彼らを利用し
彼らにいいように使われようとする私も
同じような灰色なのだから。