Place I belong

うちは一応喫茶店だけど、開店時間は
かつてのもう一つの仕事柄、それほど早くはない。
ファルコンもときどき手伝いに駆り出される以外は
そっちの方はすっかり引退状態ではあるけれど
オープンはその頃のままだ。そして
まだお客もまばらな時間帯、常連の
自称「国際派ジャーナリスト」は
カウンターのいつもの席で、エスプレッソと
ミニサラダ付きのパンケーキを突つきながら
持ち込みの英字新聞(もちろんうちでは置いていない)
を広げていた、鼻歌交じりで。

「あら、カントリーロード?」

カウンター越しの声にミックは驚いたように顔を上げた。

「Oh, goodness!口に出てたかい?」

参ったなぁ、と日本語で呟きながら
金色の髪を掻き上げる。

「朝から頭の中をヘビーローテーションだったんだよ。
レディオから聞こえたものだからね。
カントリーミュージックは趣味じゃないんだけど
間が良いんだか悪いんだか
今日が100日目だっていうのに」

100日前に何があったかはわたしにも言わずもがなだった。
アメリカ大統領にとって就任からの100日間は
一つの重要な節目となる。それまでは云わば「お手並み拝見」
新政権はその間、今後の方向性を示すための
重要政策を打ち出さなければならない。
そして、ひとまずの審判が下るのがその100日目なのだ、
というのはここ数日の報道を聞きかじっただけの
付け焼刃に過ぎないのだけれど。

「そもそもミック、トランプが大統領になったら
日本に帰化すると息巻いてなかったか?」

横で今日のランチの仕込みをするファルコンが
古馴染みらしい不躾さで切り込んだ。

「ああ、サエコの妹のロイヤーに頼んで
書類とかの準備も始めてたけどね」

と言うとミックはぱたりと新聞を閉じた。

「決着がついた前後からその勝因について
報道が始まっただろ? いわゆるプアホワイト
(貧しい白人労働者)ってやつの。アレを見てたら
自分だけが沈没船のネズミみたいに
一人逃げ出すのも気が引けてね。
オレも昔はそっち側の人間だったから」

その言葉が意外だった。
空洞化のあおりを受け仕事を失った
かつての工業地帯の低学歴、低所得層の
白人労働者たちがトランプを支持し、そのうねりが
最終的には全米を呑み込んだ、というのが
メディアの伝えるところだった。
けど今、目の前の彼はテレビに映る彼らの
対極にいるようにしか思えなかった。

近所の喫茶店に行くだけだというのに
ぴしっとスーツに身を包む。
仕事のときはなおさらのこと。
そして、ジャーナリストとしての仕事ぶりから窺える
現状と過去の出来事に対する広く深い知識
それを判りやすく伝えるウィットとユーモア。
ときおり披露するリベラルな見識からしても
わたしの知るミック・エンジェルはむしろ
知的なエスタブリッシュメントに属する側の人間だった。

でも――彼の過去、全米No. 1のスイーパーと
呼ばれる前のことはわたしもよくは知らない。
きっと冴羽さんかかずえさんに訊いてみれば
少しは判るのかもしれないけれど、それは
ミック自身望んでいないだろう、わたしもそうだから。

「ウチも貧乏だったし、その隣も貧乏だったし
ウチの向かいも、そのまた両隣も貧乏だった。
だから自分のところが貧乏だからって
全く気にしちゃいなかった。
お前のとこだってそうだったろ、ファルコン」
「フンっ、お前の頃と一緒にするな」

その言葉に、数十年前の彼の姿が
ありありと浮かぶように思えた。
身なりこそ良くなくても笑みを忘れず
――国は違えど「昭和」という形容詞が似合うような
アメリカンドリームがまだ信じられていた頃の
その名のとおり天使のようなブロンドの少年――

「ねぇミック、あなたの故郷ってどんなところだったの?」

Well(そうだな)、と一息置いて、彼は問いに答えた。

「何も無いところだったよ。人は“almost heaven”
(ほとんど天国)なんて言ってたけど
山があって川があって、それだけさ。だから
天国も本当は何も無いところかもしれないね」

自虐的な口ぶりとは裏腹に、碧い目には
きらきらとした輝きが宿っていた
きっと、子供の頃そのままの。

「――帰りたい、と思ったことは?」
「Absolutely nothing(全く)」
「でも、そんなに良いとこなら――」
「ミキ、君には判らないだろうね」

――そう、きっとわたしには判らないだろう
還るべき場所を永遠に失ってしまった人間には。

「あの頃のオレはもうどこにもいない
帰りのチケットはどこかへ行ってしまったんだ」

天国のような自然は今もそのままだとしても
その中を駆け回っていた、天使のようなMichael少年は
もういない。ここにいるのは『金髪の堕天使』の
そのまたなれの果て。

「――ふるさとは遠きにありて思ふもの、か」
「そして悲しくうたふもの」

正確に言葉を継がれたことに
ファルコンは驚いてミックの顔を覗き込んだ。

「オレと違ってカズエは故郷大好き人間だからね。
研究が忙しくなかったら盆暮れはいつも実家
だからジェイクにとって“ふるさと”はそこなのさ
そういうのは一つあれば充分だろ?」

そうウィンクする彼は、わたしたちの知っている
ミック・エンジェルだった。

「さぁて、アメリカ国民であり続けるかぎりは
遠きにありてもユウコクのココロザシは
持ち続けないとね。そのためにも仕事、シゴト!
の前に、腹が減ってはイクサはできぬ、と」

と言うとミックは、しばらく忘れ去られたままで
メイプルシロップをすっかり吸い込んだ
パンケーキにナイフを入れた。


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