獅子の子落とし

RN探偵社の社長として、調査員の採用も大切な仕事の内だ。
もともとは私一人の個人商店だったけれど
依頼が増え、自分だけでは回し切れなくなって
3人、4人と従業員を増やしていった。
おかげで今では拠点をここ新宿以外にも増やそうかという勢い
そのためにも欠かせないのが優秀な人材だ。
だが、今回の面接は正直気が重かった。
紹介者があの姉というのもある。
でも、それ以上に――

「よろしくお願いしますっ!」

いつもは依頼人の応対に使うスペースに
採用希望者を待たせていた。
私が来た途端、ソファから立ち上がって深々と頭を下げる。
社会人経験があるはずなのに、衣装は地味な
というより無骨な、まるで就活生のようなスーツ姿
まるで体育会系の女子大生のように化粧っ気も無い。
彼女の前職が公務員といえば、それも頷けるだろう
まして、私の前職と同じであれば
――もちろん私はもう少し身綺麗にしていたけどね。

「――そう、所轄の地域課に」
「はいっ」

ということは、年齢からしてまだ交番勤務だったろう
必要以上にきびきびとした返事からも
警察学校で叩き込まれたことが
まだ抜けていないことがありありと浮かびあがる。

「でもなんで、そんなにすぐ辞めようと思ったの?」

すると、見る見るうちに目の前の顔色が曇っていった。
警察官というのは「でもしか」でなるものではない
皆「なりたい」という希望を胸に、ときには何浪もして
あるいは一度就いた仕事を辞めてまでもなろうとする職業だ。
そこまでしてなった憧れの警察官を辞めようというからには
必ずといっていいほど、それなりのドラマがあるものだ
私も含めて。

「――3ヶ月前のストーカー殺人をご存知ですか」

ええ、同じような事案を扱う者としてしっかり把握済みだ
新聞記事は全てスクラップして。
だが、調べれば調べるほど「よくある」事件だった
本当はそのようなことがそうそうあってはならないにもかかわらず。
些末な付きまといや嫌がらせの段階では
警察が対処してくれるとは必ずしも限らない。
そして、彼らが対応しなければならないほど大事になったときには
もう遅すぎるのだ。

「わたしが――最初に相談を受けたんです。
もちろん上にも言いました。
でも、特に何かをやる必要は無いと――
あのとき、私が独りででも見回りを強化していれば
もっと何かしらの対策を取るよう上に掛け合っていれば……っ!」

彼女は、大粒の涙をぼろぼろと零しながら
スカートをぎゅっと握りしめていた。

「それで、探偵に?」

ハンカチを差し出されると大きく頷く。

「民間だったらもっと素早く
彼女のSOSに対して行動できたはずです。
わたしは、同じような悲劇を
二度と繰り返したくはないんです!」

警察の腰の重さ、事なかれ主義は
その内側も外側も知っている身として
嫌というほどよく判っていた。が、

「でも――それでもしストーキングの現場を
抑えられたとして、それでどうするの?」
「えっ……」
「もし相手がナイフか何かを持っていたら?」
「そ、それは……」

彼女の情熱はよく判った
でも、情熱だけでは人を救えない。

「わたしたち私立探偵には、銃も令状も無いの
ストーカーを捕まえたところで、相手に
これ以上付きまとうなと命令する権限すら無いのよ」

その限界に、長いことこの仕事を続けてきて
何度もぶち当たった。警察内に身内がいるという
同業者の中では比較的恵まれた条件であっても。

「まだ辞表を出す前なら、思い直すことね
警察内にいた方が、より多くの人を救えるはずよ」
「――野上さんは、ご自分の仕事を否定するんですか?」

顔を伏せたまま、地を這うような声で投げかけてきた問い。
その言葉に、この仕事を始めてからのことが
ありありと蘇ってきた。
確かに、警察ではどうしようもできなかった事件を
探偵だったからこそ解決に導けたこともあった。
もちろん何の権力もない民間ゆえの苦労も数多かったが
そこはあの手この手で突破するしかなかったし
そうやって苦労した結果の一件落着は
喜びも達成感もひとしおだった。
でも――それが“負け惜しみ”ではなかったとは言えなかった。
そう思わなければ、その苦労に
価値が無かったことになってしまうから。

本当は、それはしなくてもいい苦労だったのだ。
そしてそれを他の誰かに押しつけることはできない。

「――残念ですが、もうお引き取りください」
「それは不採用ってことですか?」

彼女の眼は理不尽さへの怒りに燃えていた
きっと被害者の死を知ったときと同じように。

「ええ」

それがきっと、姉が彼女の履歴書を
私に送ってきた意図なのだろう。
もちろん彼女は諦めずに、他の探偵事務所に
同じように就職を申し込んでくるかもしれない。
そのことを、そしてそこが彼女を採用することを
妨げることは私たちにはできないことではあるけれど、でも
確かに逆境は人を一回り成長させてくれる
だからといって、何もわざわざ好き好んで
千尋の谷を自分から転げ落ちる必要は無いはずだ。

肩を怒らせながらまだ若い女性警察官が
応接スペースを後にすると、わたしは
彼女の履歴書をシュレッダーにかけた。

ムーニーのおむつCMに「ワンオペ育児を賛美しないで」批判⇒ユニ・チャーム「取り下げはせず」本来の意図は? | ハフポスト