36.2℃

灯篭流しの小舟が川面に揺れる。
彼女はその中の一隻に、亡き恋人の形見をそっと置いた
給料3ヶ月分、というほどではない指輪
けど彼女はずっとそれを左手の薬指に嵌め続けていたのだ
彼が自ら生命を絶ってから、ずっと。

亡き人の死の真相を知りたいと依頼があったのは
彼の新盆を前にしてのこと。
あの人が死ぬ理由なんて考えられないと
訴える依頼人の声の方がよっぽど
まるで今にも死んでしまいそうなほどだった。
その彼の職業が議員秘書と聞いて
ざわめきたったのはむしろ外野の方。
すわ政界スキャンダル発覚か、疑惑の政治家も
今度こそ一網打尽かと。だが手ぐすね引いて待っていた
冴子やミックの思惑は外れて、彼が死ななければならなかったのは
仕事は別の、それでものっぴきならない事情のせいと
遺された恋人が知ったとき、一瞬、拍子抜けしたかのようだったが
それでもようやく肩の荷が下ろせたようだった。

ゆっくりと流れていく小舟を見送る彼女の傍に
もう一つ、ひょろりとした頼りない影。
それは彼女の同僚のものだった。
恋人を喪い哀しみに沈む彼女を
ただ黙って見守るだけしかできなかった青年。
そこには下心が無かったといえば嘘になるだろう
けど、そんな臆病だが誠実な人柄がきっと
彼女が一歩を踏み出す支えになるに違いない。
その左手の薬指にはまだ指輪の跡が残っているが
それもいつかはまたふっくらと薄れていくのだから。

送り盆は、夏の終わりの始まり
日が落ちた後に吹く風は、確かに1週間前とは違う
水面の上を吹き渡ればなおさら。
所在なさそうに揺れる彼女の左手を
彼の右手がそっと掴んだ。
手のひらと手のひらという僅かな接点でも
そこから通い合う温もりもあるはず――

「もうこれで、あんたもお役御免ってわけだ」

耳元からいたずらっぽくかかる声。

「けっ、あんなひょろひょろに
ユミちゃんを任せられるかよ」
「でも二人、なんだか良い雰囲気じゃない
これは一気に、ってのもあるかもよ」

そう香はにんまりと笑みを浮かべる
まるで恋愛相談のプロみたいな口ぶりで。
まぁ確かにあの二人を、事情を知らない他人が見れば
普通にカップルだと思うだろうが。

「ねぇ撩」
「ん?」
「あたしがもしいなくなったら
ちゃんと次の相棒探しなさいよ」

そう言う香の眼は真っ直ぐだった。
灯台下暗し、光源は水面に集中する中
俺たちの立つ川岸は夏の闇に包まれていた。
それでも香の眼差しの持つ力は俺にも見てとれた。

「っていっても、どうせさっそく
若くてきれいな娘を連れ込むに決まってるか」

そうそうカオリンご明察♪、などと
冗談で逃げることもできた
んなこと言うなよ、と強引に
話を打ち切ることもできた。
でも、そのどちらも選ぶことができなかった。

欲望を満たすためだけの、恋とも呼べない
一夜の恋なら、きっとそうするだろう。
けどそうではなくて、もっと精神的な――
ぬくもり、といえるようなものを
求めずにはいられなくなったら……
きっと、気づかされてしまうだろう
俺には香しかありえないということを。

ほんの少し温かくても、わずかに冷たくても
きっと俺はそのぬくもりを拒絶するに違いない。
それでも、ただの恋人程度なら
「みんな違って、みんな良い」とも思えるはずだ。
だが、香はあまりにも完璧すぎた。
だから0.1℃、0.001℃の違いすらきっと受け入れられない
そして傷つけてしまう、相手も俺も
誰も悪くないのに、我儘な俺以外は――

だったら、風に吹かれながらも
淋しく独り突っ立っている方がマシだ
たとえどんなに心が凍えようと
それがどんなに馬鹿馬鹿しかろうとも。

――返事の代わりに、香の手を掴んだ。
普段は人前であまり手をつなぐことはしない
それは照れ屋のあいつも同じだった。
けど晩夏の暗闇の中なら誰にも気づかれまい。
香の平熱はだいたい36.2℃
筋肉質の俺の方がむしろ高い方だ。
けど、その少しひんやりとしたぬくもりが俺には心地よかった。