Prince Charming in the City

「まさかあの子が結婚するなんてねぇ」

と言ったのは、高校時代からの友達だった。
そして「あの子」というのは、あたしたち共通の
つまり高校の後輩。彼女が「まさか」と言われたのには
それなりに理由があって、というのも高校時代
あたしに直接ラブレターを渡しに来たのだ。
その場にちょうど居合わせたのが絵梨子なのだが

「しかも、玉の輿だったらしいわよ」

と、大して興味無さそうに補足する。
確かに絵梨子にはどうでもいい話だ、彼女が選ぶとしたら
全身これ見よがしのブランド品で固めた成金よりも
たとえ安物でもセンス良く着こなす貧乏人なのだから。
そういう彼女のぶれない尺度があたしは今も好きなのだ。
でも――

その事実を絵梨子に伝えたであろう
かつてのクラスメイト達の口ぶりが
たとえそれがあたしの想像に過ぎなくても
さっきから脳裏を離れなかった。

――羨ましいわね
――まるで映画化おとぎ話よねぇ
――憧れちゃうわ
 それにひきかえ……

最後の一言は完全にあたしの勝手な思い込みだ
なぜなら彼女たちは今のあたしのことは知らないのだから。

「ただいまぁ」

絵梨子のところから帰ってきたら、玄関には
乱雑に脱ぎ散らかされた大きな靴。
そこから転々と、まるでグレーテルのパン屑のように
廊下の動線に沿って放り捨てられた靴下が
片方ずつ、しかも完全に裏表にされて。
あいつは裸足で靴を履くことはないが
家にいるときはたいてい素足だ、しかも
ときどきスリッパすら履かずに。

「リョオっ」

同居人は山脈のような寝姿をさらして
ソファに引っくり返っていた。
――酒好き女好き、無為徒食という言葉は
まさしく彼のためにあるようなものだ。
その時点ですでに、あの後輩を見初めた“王子様”とは
同じ男とはいえ全く対極の存在だろう。
その上、その正体が職業的犯罪者――殺し屋。
もっとも、その依頼が無ければこのとおり
ただのヒモなのだけれど。

――何だか、自分が惨めに思えてしまう。

撩に愛想が尽きたというなら、さっさと見捨てて
もっと条件のいい男を探せばいい。
でもそうじゃない、あたしはこれからもずっと
撩の傍にいたい。それがあたしの幸福だと思っている。
けど――聞こえない声が耳に障る
あんな男と一緒にいても不幸になるだけだと。
世間が冷たい視線を向ける。そのたびに
不安になる、これが本当の、あたしの幸福なのだろうかと。

きっと、世間一般が思い描くような幸福
――素敵な旦那様に可愛い子供――を
手にしているような人なら、そうやって
自分の幸福を疑うこともないはずだ。むしろ
迷ったとしても、周りから「おめでとう」と言われるたびに
自分の幸福を確信することができるだろう。
でも、あたしは――ずっと、世間に対して
「あたしは幸福だ」と叫び続けなければならない
後ろ指差す声を掻き消すだけの大きさで。
それは並大抵の労力では済まない、いっそ
そういう世間の声に迎合した方がよっぽど楽だ
自分の魂を売り飛ばしてでも。

「――疲れた」

それでも日々の生活は待ってくれない
太陽はもう夕日に変わりつつある
そろそろ夕飯の支度をしないと……
そのとき、背後の山脈がのっそりと立ち上がった。

「そんなに嫌々やるんだったら
メシなんて作らなくっていいぞ」
「りょう……」
「料理は愛情なんて言うつもりはないが
こういうときにかぎってお前は味付けトチるからな」

そして、あたしの手から
サイズの合わないエプロンを引ったくる。

「香、何時間なら待てるか?」
「うーん、30分くらい」

だいたい自分でもそのくらいの時間を見込んでいた。

「お、挽肉にトマトもこんなに♪」

と、冷蔵庫を覗き込むなり声を上げる。

「これ使っちまってもいいよな」
「いいけど、何作るのよ」
「待ってろ、NYで一番旨い
ミートソーススパゲティ作ってやるから」
「ニューヨークぅ?」
「ああ、もっともミックのやつは
『うちのママのがもっと旨い』って聞かなかったがな
それでもNYでNo. 1ってのは確かだ」

そう口は達者に動かしながらも、慣れた手つきで
トマトや玉葱を軽快に刻んでいく。
あたしはそれを傍で見ているだけだ。

「ま、なんだって自信を持つのは結構ってことだ
たとえ根拠が無くったってな。それに
人が羨む境遇だって悩みは絶えないかもしれないぜ。
例えば――シンデレラだって、きっとあの後
嫁姑問題には苦労したかもしれないぞ」

まるであたしの心を見透かしたかのような言葉を
投げ込んできた撩は、涼しい顔で
冷凍しておいた挽肉をそのまま鍋に投入する。

「でも……シンデレラだって、もともとは
お金持ちのお嬢様だったんでしょ」
「ばぁか、いくら金持ちでもあの時代は
王侯貴族とは身分が別だ。お妃どころか
ポンパドゥル夫人みたいに愛人になるのが関の山さ。
お、挽肉が余りそうだから残りはミートボールにするか♪」

そしてさっきのトマトや玉葱を炒めた挽肉の中に放り込んだ。

「もっとも、あれはおとぎ話だからってのもあるが
お妃はたいてい余所の国のお姫様から選ぶもんさ
ま、政略結婚ってやつでもあるがな」
「え、でもダイアナ妃はイギリス貴族のお嬢様でしょ」
「まぁあれは時代がようやく変わったってもんだろ
彼女のお舅さんはギリシャの王子様だったし」
「そうなの?」

そもそもギリシャに王様がいた(今もいるのかな?)
ということ自体初耳だった。と同時に
そういう他愛もない会話を重ねているうちに
さっきまでの惨めさは跡形もなく消えていた
――おそらく、今のあたしは
不幸せではないということだろう。
なら世間に対して堂々と胸を張ればいい
あなた方が何と言おうと、あたしはこのとおり幸福だと。
根拠が無いわけじゃない、隣にいる撩の笑顔
彼こそが唯一無二の、あたしにとっての王子様なのだから。