【63/hundred】ひとづてならで

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな

アスファルトを叩くように降りしきる雨が
血の跡を洗い流していく。
こんな嵐の夜ではなかったら、きっと
ヘンゼルとグレーテルのパン屑のように
地面に残る赤黒い染みを追っていけば
容易に足取りを掴むことができただろう。
もっとも、この状況ではそんなメリットも
まさしく焼け石に水といったところだろう。

この傷の部位、そして今の自分の様子だと
おそらく、やられたのは肺だろう――最悪の殺され方だ
心臓のように即死とはならないが
息を吸ったところで、空気は肺に開いた穴から
漏れ出していく。当然、酸素の交換は滞り
じわじわと息苦しさを味わわせられた挙句に、窒息死。
ただ、肺というのは毛細血管の塊のようなものだから
そこに風穴を開けられれば出血も甚だしい。
それが気管を詰まらせれば一発でアウトだ
どちらが先でも、最も苦痛に満ちた死に方だけは免れないだろう。

だったらまだ一撃で死なせてくれた方が慈悲というものだ
――いや、それでは奴らの意図したようにはいかない
あの連中の標的は撩以外の何者ではないはず
俺は所詮、あいつをおびき寄せるための囮に過ぎない。
だから、俺を撩のもとに帰り着かせてやれる程度には
生かしておかなければ――もちろんあの狂人に
そこまで考える理性は無かっただろう
偶然にもそれが最適の結果となっただけだ
――ならばわざわざ、奴らの思惑どおりに
撩のもとに帰る必要は無い、いや、そうすべきではないはずだ。
だが奴らは遅かれ早かれ撩に牙を向くに違いないだろうし
あいつもあいつで、奴らをのさばらせるつもりはないに違いない
ならば一刻も早く、相棒にこのことを伝えないと――

雨風を凌げるこの電話ボックスの中でだけは
胸を突き破る、かつて車の窓枠だったものから
滴り落ちる血がはっきりと目視できた
――いったいどれだけの血がこの身体から失われたのだろう
そう考えると今の自分が、まるで砂時計の上半分のように思えた。
さらさらと流れ落ちていく――砂が、血が、生命が――時間が
自分に残された時間は、あと僅か
それだけは、今まで(当然)このような状況に
陥ったことがないにもかかわらず、はっきりと自覚できた。
おそらく、あいつのアパートにたどり着いたところで時間切れ
だが、まだ俺には逢って伝えなければならない相手がいるのだ。

まず真っ先に浮かんだのは、妹の香の顔
――ああ、せっかくの誕生日
それも二十歳の誕生日なのにな
すまんな、命日にしてしまって。
今日でようやく大人の仲間入りだが
それでも兄として放っとくわけにはいかなかった
ただ――昼間の、まるで仲の好い兄妹のように
撩とじゃれ合う姿が脳裏をよぎる
あいつならきっと、俺の代わりに香のことを
見守っていってくれることだろう
だから、最期の言葉は撩に託してやればいい――
心残りが一つ消えると、それだけで体の力がふっと抜ける
がくりと血に染まった床に膝が落ちた。
もう一つの心残りは――視線を斜め上に向けると
黄色い受話器が視野に入った。
当たり前だ、ここは電話ボックスなのだから。

もちろん、先立つものが無ければ声を届けることもできない
だが――気づかれたら「コートが傷む!」と
香にまた叱られるだろうが、ポケットの中に小銭
その中に赤銅色のコインも混じっていた。
直接逢うことはもはや叶わないだろう
だったらせめて電話だけでも――立ち上がることもできないまま
腕だけを懸命に伸ばして、コインを投入口に落とそうとして――止めた。
たとえ逢えないにせよ、姿も見せられず
無機質な電線を通してしか伝えられない声に何の意味があるだろうか
それは、今生の別れとしてはあまりに侘しすぎる――

文字どおりの渾身の力で立ち上がると
電話ボックスのドアにもたれ、押し開けた。
春というには冷たい雨が、体温を、体力を奪っていくだろう
それでも俺は行かねばならぬ
予見したように、撩のところで力尽きるとしても
一縷の可能性に託して
告げるために
別れを。

――今はただ サヨナラだけは 言わなけりゃ
人伝てじゃなく 電話でもなく