【72/hundred】たたずもあらなむ

高砂の をのへの桜 咲きにけり
外山のかすみ たたずもあらなむ

見上げれば桜の花が満開を迎えようとしていた。
見慣れたソメイヨシノよりやや小ぶりのその花は
花弁の端に行くにしたがって、グラデーションのように
淡い薄紅が次第に濃さを帯びてくる。その様が
まるで頬を赤らめる可憐な少女のようで――

「お前さんが桜に見とれるとはの」

池の水面に声の主の姿が揺れる。

「教授、驚かさないで下さいよ」
「ふぉっふぉっふぉ、これしきの気配が読めんようでは
スイーパー失格じゃの」

もちろん気づいていたさ、それでも
危害を加えないものだと判っていれば
敢えてスルーするのも危機察知能力のうち。

「にしても、お前さんの好みはむしろ、ほれ
ああいう豊満でゴージャスな金髪美人のような
八重桜じゃなかったんじゃないかのぉ」

と、この庭の主の老人は杖で早咲きの花を指し示した。

「どういう喩えですか【苦笑】」

――確かに、昔の自分ならああいう色鮮やかで
華やかな花にばかり眼が行っていただろう。
そして一重咲きの、淡い薄紅をほのかにまとっただけの白い花は
群れればそこそこ綺麗ではあるが
一輪一輪は貧相に見えたに違いない。
だが、今この眼に映るかすかな薄紅色の花は
清冽かつ端麗で、凛とした美しさを秘めていて――

「まぁ、齢を重ねれば立場も変わる
自ずと好みも変わってくるもんじゃろ」
「言っときますが、俺にはそういうロリコン趣味は――」
「おや、そんなことは一言も言っとらんぞ
もっとも、この花の名前は小松乙女というがの。
ところで撩、こんなところにおってよいのか?」
「……よくご存知ですね」
「当たり前じゃろ。今日はかずえくんも
午前中は急患には応じられんと言っておったわ。
今頃ミックもその隣でビデオカメラを回しとるんじゃないかの」

そしてタコ坊主も、目が見えやしないのに
美樹と一緒に我が子の晴れ姿を見届けに行っているはずだ。
そして当然、香も。
今日はうちのチビたち3人の小学校の卒業式なのだから。

「行けるわけがないでしょう
ひかりにまつわる書類のどこにも
俺の名前は書かれてないんですから」

もちろんこの街に住む訳知りの人間たちは
ひかりが俺の娘だということは皆知っている。
でも、知らないやつに敢えて教える必要もないはずだ
あの子を護るためにも。

「なら撩や、欠席ついでに手伝ってくれんか
いや、これはむしろお前さんの仕事じゃな」

そうだ、卒業式の後にそのお祝いをやろうという話になったのだ
せっかくだから、花の盛りの教授の屋敷で。
もっとも、子供たちは格好の言い訳に過ぎず
要は親たちが飲んで騒いでしたいだけなのだが
その宴席の準備は当然引き受けなければならないだろう
式にも行けず、独りくすぶっているだけの俺が。

「まったく、出前を頼んでくれたおかげで
おさんどんの手間は省けたが……」
と、ぶつくさ呟きながら踏み石を伝って屋敷へと戻っていくが

「それにしても最近の桜は
ずいぶんと早くなったもんじゃ」

その小さな背中がぴたりと止まる。

「そうですね。今は3月の内にこのとおりですから」

再びその背中がひょこひょこと動き始めると

「パパぁっ!」

それとは正反対側からけたたましい声が響いた。
もうそんな時間か、ということは残り2組もじき来る頃だろう。

ひかりはというと、絵梨子さん謹製の
チェックのツーピースに身を包み
(でも、これももう着ることは無いんだろうな)
その格好に似あわず、いつものように
卒業証書の入った筒をぶんぶんと振り回していた。
まだ12歳の誕生日には数日の猶予がある
来月からは中学生とは思えないほど、あどけなく
まだどこか危なっかしさはあるものの、その内側に
今までとは違う彼女の萌芽を秘めているようにも思えた。
清冽かつ端麗で、それでいて凛々しく――

すると、そのとき
一陣の風が吹きすさび、庭の桜をひとしきり撫ぜていった。
――盛りというのは、後は坂を下って行くだけ
月に叢雲、花に風。サヨナラだけが人生だと
詠ったのはいつの詩人だったか。

満開の花は、その風に耐え切れず
はらはらと花弁を散らしていく。
その花吹雪が一瞬、娘の姿を覆い隠した。

――春が来て みんなが待ってた花だから
霞よ立つな 風よ散らすな