1994.2

ここに足を踏み入れたのは、いったいいつ以来だろうか。

「いらっしゃいま――、あら、お久しぶりですね」

そう言われて、あの頃のように余裕一杯で微笑み返すが
内心は当時とは全く正反対だ。
虚勢を張って、それがバレやしないかとびくびくしている。
ほら、あんまりじろじろ見ないで。
精一杯化粧してきたのに、ファンデーションの乗りは最悪
メイクの仕方だってほとんど忘れていたくらいだ。
それに、朝から丁寧にブラッシングしてきた髪も
すっかりバサバサ。それでも相手はその道のプロだから
手に取れば、いや、一目見ただけでそうと気づいてしまうだろうけど。

美容室なんて昔は少なくとも2ヶ月に1回は来ていた
たとえどんなに『仕事』で忙しくても。
むしろ、1ヶ月を越える長丁場になると
現場の捜査員には一日の休暇が与えられる。
そこで英気を養って翌日から出直すわけだが
そんな日はたいてい美容室に駆け込んだものだった。
優雅な気分で髪型を整えてもらうだけで、殺伐とした世界を忘れられると同時に
自分をリセットして、また颯爽と現場に立つことができた
警視庁の女豹、野上冴子として。

それが……前に来たのは、まだおなかが大きかった頃だったから
もう3,4ヶ月は経っていただろうか。
いつも肩の辺りで切りそろえていた髪も
すでに束ねられるほどまで伸びていた。
ここまで長いのは成人式のとき以来だろうか。

「野上さま――でよろしかったでしょうか」

私の結婚式のヘアメイク担当でもあった行きつけの美容師が
恐るおそる訊いてきたが、

「かまわないわよ」

むしろ今日は『野上冴子』に戻るためにここに来たのだ。

「このたびはご出産、おめでとうございます」

あら、もうバレてたの。たぶん情報源は母ね
この店とは家族ぐるみの付き合いだけど、麗香はもう来てないっていうし。

「確か、男の子でしたっけ」
「ええ」
「もう何ヶ月ですか」
「ちょうど3ヶ月ね」

そう、そしてその3ヶ月をもって私の産後休暇も終わるのだ。

それまではずっと、文字どおり髪を振り乱して秀弥と格闘していた。
何を言っても言うことを聞かない『部下』という
今までとは180°違う毎日に、さらに日頃は気づかなかった
年齢さえ痛切に思い知らされた。

「男の子はやんちゃっていうけど、むしろ神経質でね
援軍の母でさえ手を焼いたもの、こんなに手のかかる子供は初めてだって」

あれだけ女の子ばかり育ててきた母が言うのだから
個人差だとは必ずしも言い切れないのかもしれない。

「夜泣きはするわ、哺乳瓶では飲んでくれないわ
育児ノイローゼになるところだったわ」
「あら、母乳じゃないんですか」

と、すっかりエレガントな高級美容室とは
不似合いな会話に花を咲かせていた。
でも、どう取り繕ってもこの店の客層の大半は良家の奥様方
一度はおっぱいやらおむつやらの洗礼を受けた女性がほとんどなのだから。

最近ではまた母乳による育児が主流になっているようだが
それだと私はいつまでたっても子供のための乳牛に過ぎなくなる。
私には、それ以上にやらなければならないことがあるのだ。

私は、明日、職場復帰する。
そのためにはこの3ヶ月、育児にばかり明け暮れてきた
自分をリセットしなければならない。
髪もバサバサ、肌だって荒れ放題だろう。
一見、警察という殺伐とした世界には過剰なほど
隙の無いスタイル、それが私のやり方であり武器だった。
それをもう一度取り戻さねば、たった一日で。

出産後の2ヶ月間は無我夢中だった。
正直、その間の記憶がすっぽりと抜け落ちているくらいだ。
そして、警察官として恥ずかしいことに
外の世界のことも、起きていた事件のこともまったく耳に入らなかった。
夫の仕事のグチを聞いていれば多少は掴めたのかもしれないけれど
帰ってくるなり捕まえては私が一方的にグチをこぼしていたから
彼はぼやく暇さえ与えられなかった。
でも次の1ヶ月でようやく高層マンションの外にも眼がいくようになり
息子もそれほど手がかからなくなった。
これで私は『秀ちゃんのママ』から『野上冴子』に戻れる。

「ところで息子さんの面倒は、今日はご主人が?」
「いえ、妹に」
「えっ、麗香さんが子守りしてるんですか?
あ、それとも唯香ちゃんが?」
「ああ、夫の妹が今見てくれてるの」

香さんは、前々からの約束だからと
職場復帰後の秀弥の面倒を快く引き受けてくれた。
問題はあの撩だけど、前に小さな女の子を預かったときも
良いパパ代わりをしていたようだから、意外と向いているのかもしれない。
他人に子供を預けてまで働くことをとやかく言う者はいるだろう。
私だって、かつてはそう思う一人だったかもしれない。
でも香さん、そして撩と接してきて気がついたのだ
たとえ血が繋がっていなくても、充分な愛情をかけてくれる人さえいれば
それで子供は真っ直ぐに育つと。
もちろん私たちだってあの子のことを愛している。
でもその愛情は、そう想っているだけの哀しい片想いにしかなりえないのだ。

親の代わりは誰にもできない、と人は言う。
だが、母親の代わりはできても
野上冴子の代わりはいったい誰に務まるだろうか?

「じゃあ、確認してください」

そう言って鏡に映し出されたのは、髪を鋭角に肩で切り落とした
まさしく『警視庁の女豹』その人だった。
もうすでに次のエステの予約は入れてある
それまで手入れもままならなかった肌を何とかしてもらわないと。
産休も含めて4ヶ月のブランクを感じさせないように
いや、それ以上の美貌で世の男たちを――警察官、犯罪者含めて――驚かせるくらいに。

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