雪の日の歩き方

昔、雪景色を見ても何とも思わなかった。
わたしが生まれ育った街では冬、雪に埋もれるのが当たり前であり
おそらく近所の飼い犬も喜んで庭を駆け回らなかっただろう
祖母が飼っていた猫はこたつで丸くなっていたけれど。
でも今、こうして東京に降る雪を眺めているだけで
郷愁とともにどこか湧き立つような気持ちになるのは
わたしも都会の人間になってしまったということなのだろうか。

だが、そう喜んでばかりもいられない
故郷の街ならともかく、ここではたった5cm雪が積もっただけで
都市の交通がマヒしかねないのだ。
雪国生まれの人間としては情けないと思わざるをえない。
もっとも、人口数十万の小さな地方都市と
日本人の10人に1人が住むこの街とを比較するのは無理があることかもしれない。
けれども、

「Jesus!シカゴじゃこれくらいの雪だって
ループ(高架鉄道)は動いてたぜ」

との彼の言葉に大きく頷いた。
朝のニュースではすでに鉄道各線に大きな影響が出ていた。
電車とはあまり縁のないわたしたちだけど
そのあまりの混乱ぶりに思わず本音が飛び出してしまったのだろう。
――いつか、寝物語に聞いた彼の故郷はひっそりとした山の中だった。
あまり過去のことを語らない人ではあるし、わたしも詮索するのは好きではないから
それ以上のことは知らないけれど、きっと冬には雪に閉ざされてしまうのだろうか。

そういえばさっき顔を出してきた行きつけの喫茶店では
女主人が寒そうに手のひらをしきりに擦り合わせていた。
やはり熱帯育ちにはこの雪は堪えるのだろう。
マスターはというと

「ふんっ、昔の東京はこの程度の雪はよく降ったもんだ」

とは言っていたものの、奥の食料庫に消えた途端
お店にまで聞こえるほどの盛大なくしゃみが響き渡った。
そうはいっても、ジャングルの戦場が長かったのか
それともその名のとおりの南国の血筋のせいなのか
いずれにしても、女二人で苦笑いを浮かべるしかなかった。

そんな私の今日の出で立ちはというと、いつものパンプスは封印せざるをえなかった。
本当は履き慣れた靴が一番なのだけど、雪に覆われた路面を歩くには
この防寒ブーツが一番安全なのだ。
そして、歩き方にもコツがある
小さな歩幅で、垂直に足を下ろす。足の裏全体をつけるように。
もちろんヒールなんてもってのほか。
知り合いの女刑事だったらこんな日でも颯爽と歩くのかもしれないけれど
そうでもなければ転びたくて履いているようなものだ。
ほら――あぶないっ!
今も目の前で高いかかとのブーツをはいた女性が足を滑らせそうになった。
どうやら街を歩いている人たちはみな、生まれも育ちもこの街か
少なくとも雪の少ないところの出身のようだ。歩き方がまるでなってない。
そんな中、雑踏の中で一人だけゆっくりと慎重に歩く人影を見つけた。

「あら、香さん。久しぶり」
「あっ、かずえさん!どうしたの?こんな雪の中」
「ちょっと郵便局まで、今日までに送らなきゃいけない荷物があって
もう出してきたところなんだけど」

頑丈そうなブーツで足元を固めた彼女は
この雪の中でも欠かさず伝言板を見に来ていたという。

「そういえばしばらく逢わなかったけど――」
「ああ、依頼でちょっと山奥の方まで行ってたのよ。
あっちもすごい雪だったんだけど、帰ったら東京も雪でしょ?嫌になっちゃう」

それとも、もしかしたらあたしが雪雲連れてきちゃった?
と、すまなさそうに顔をしかめるが、だったらそのなれた足の運びももっともだ。

「でもしばらく乾燥してたから、ちょっとはマシなのかなぁ」
「そうねぇ……」

確かに、太平洋側の冬の乾燥は北陸育ちには少々酷だ。
カサカサ肌を通り越して痒みさえ覚えてくるのだ
それもこの雪で少しは収まるだろう。

「それに、雪が降ってる方があったかいような気がするのよねぇ」

そう、吐く息も白く凍りつく雪の路上で、香さんが言った。

「ほら、こっちだといつもは風が寒いの通り越して『冷たい』じゃない
なんかもう刃物みたいな感じで。でも雪が降ってると
かまくらじゃないけど、どこかぬくもりがあるっていうか」

湿気が熱を含むというのは科学的な事実でもある。
でも彼女の言葉はそのような理系の意味ではないように思えた。
この東京で乾いているのは冬の空気だけではない
人の心もまたからからに乾ききっているのではないか。
きっと、香さんが依頼で行ってきたという山奥は
雪に閉ざされているからこそ暖かい心がまだ残っていたのかもしれない
私が故郷を想うとき、心の奥にぬくもりを感じるように。

「じゃあ、そろそろ」
「あ、うん。帰り、気をつけてね」
「香さんもね」

とは言ったものの、その必要はないようだ
じゃりじゃりとチェーンの音を立てて真っ赤なクーパーが近づいてきていたから。
きっと狭い車内も二人なら暖かいに違いない。

「――今夜はブリのあら煮にせんまいけねぇ」

昨年の年末に母から送られたものが冷凍庫に残っていた。
ミックもああ見えて和食も好きだし、こういう寒い日には
味のよく染みたものが食べたくなる。
作ってみようか、雪の故郷を思い出しながら――
逸る気持ちを抑えながら、小さく帰り道の第一歩を踏み出した。

関東地方で雪の影響によるスリップ事故など相次ぐ 事故およそ2,300件、200人以上けが