二匹のハリネズミ

ココロとカラダというものは二つで一つであり
どちらか一方無しではもう一方は立ち行かない。
こんなことは当たり前の事実かもしれないが
ときに人はその『事実』すら自分たちの都合のいいように歪めてしまう。
例えば、浮気男の言い訳
心の底から愛してるのはお前だけだと言いながら
男というものは愛が無くても女を抱けるとほざく。
と言いつつも、俺もまたたった一人の女を愛していながら
いや、心から愛するがゆえに手を出すことができなかったのだが。

心と体は二つにきっぱりと分けられるものでも
どちらかが上でどちらかが下というものでもない。
これを頭では理解していながらも感覚では納得していない男たちは
しばしば女たちの“気まぐれ”に手を焼く。
半月前までまるで聖母か菩薩のようだったのが
あっというまに悪鬼か羅刹かとなってしまう。
俗にいうPMS――月経前症候群
実際に体調を崩すというケースもあるらしいが
香の場合はあくまで精神的なものだけで、だがそれが厄介なのだ。
怒りの沸点が、いつもより格段に下がる。
なので、こんな日に喧嘩を売った敵は散々な目に遭うことになる
返り討ちの三倍返しだ。
あいつ自身、自分の感情の変化は自覚しているようで
「気をつけようと思っても、イライラしちゃうんだよねぇ」
と苦笑いを浮かべる。
俺も付き合いだけは長いから、なるべく香を刺激するような
ことは避けようと心がけているつもりだ
決してあいつの豹変を咎めだてることはせず。

人の心というものは常に変わらないものではない。
陽気な男が陰気になることもあれば、また陽気に戻ることだってある。
そしてしばしば、心の揺らぎと体の揺らぎは直結する。
ストレスで胃が痛くなるように――ああ、そういえば
かつての相棒も苦い顔をしながらよく鳩尾の辺りを押さえていたっけ――
心が体に影響を及ぼすこともあるのだから
反対に体が心に影響することだってあるはずだ。
だが、世の男どもは心と頭で身体の悲鳴を抑え込むのを
美徳と思い込んでいる節がある。
だからこそストレスでどうにかなってしまうのだろうが
その点、俺はいつも体が求めるところに忠実だからな。
だから『新宿の種馬』だとか『ケダモノ』とか呼ばれてしまうのだが。

その体が、今、悲鳴を上げていた。
もともとは大したことのない怪我だ。
さすがにかすり傷――とはいえないものの
俺にとっては重傷というほどではなかった。
だが、傷口から菌かウイルスでも入り込んだのか
それともこの寒さ続きと相まって鼻風邪をこじらせたのか
――インフルエンザという可能性もあるな、今年は
 予防接種は受けたにも関わらず、ウイルス型の予想を外したというのでは
 競馬の予想屋だったら責任を取って廃業するレベルだ――
とにかく、熱で全身がだるく、傷口ばかりでなく節々まで痛みやがる。
かずえくんが処方した抗生剤を飲んだら、あとはもう安静にしているしかない。

でもただ部屋でじっとしているだけでは一日は長すぎた。
ご自慢のコレクションを眺めようにも熱で目がかすむし
ビデオも同じこと。だったら古いレコードでも聴くかと思ったが
スピーカーの音響が頭痛を招くことが判って、一曲目で断念した。

これがリビングだったらもう少し退屈しないのかもしれないが
なぜ下に降りないかというと――香がイライラの真っ最中なのだ。
ただでさえ普段以上に至らない男の面倒を見させられれば
自分でも感情を荒立てないよう意識しているあいつにとって
負担になることは間違いない。と言いながら、その実
あいつの怒りの火の粉がこっちに飛んでくるのが嫌なだけなのだが。
だから看病は最低限でいいと言っておいた
その代わり、下で自分の仕事をやっていろと。

だが、そう言ってはおきながら
階段の足音が次第にこっちに近づいてきた。
ただ、その音がいつものように軽やかとは言い難かった。
――そろそろ検温の時間か、だったら仕方がない。
その足音が、ドアの前で止まった。

「りょお――」

ドアを開けたまま、その前で香が立ち尽くす。
別にあいつに呆れられるようなことはしていない
ただぼぉっとベッドの上に蹲っていただけだ。

「まるで今のあんた、手負いのライオンみたいね」
「そうか――?」
「近づくなオーラがビンビン出てるわ」

それに気圧されて、あいつは一歩も進めないというわけか。
野生の動物は怪我をしても手当てをしてもらうことはない
ただ敵に気づかれないところにひっそりと隠れて、自然治癒力に頼り
傷が癒えるのをじっと待つだけだ。
――俺が香を避けようとしていたのも
あいつのためでも、雷怖さの自分可愛さだけでもなく
そんな弱りきった身体が本能的に欲したことなのか。

だが、戸口に突っ立っている香からも
どこか刺々しいものが俺の眼には感じられた。
触れれば怪我をするような鋭さ
それは決してあいつ自身が望んだものではないのに――

まるでハリネズミのようだ。
近づけば鋭い棘で相手を傷つけかねない
たとえ寒さに凍えて、寄り添い暖め合いたいときでさえ。
香だって俺のことが心配なのだろう
俺だって体調不良特有の心細さもある。
でも、どうすれば互いに傷つけ合わずに済むのだろうか。

「じゃあ、撩」
「あ、ああ」

意を決したように香は一歩を踏み出した。
そして体温計を取出し、ベッドサイドに膝を下ろすと
俺のシャツの襟元を探る。

「――もっといい方法があるだろ?」

あいつの細い手首をつかむと、そのままぐっと
――よく今の俺にこれだけの力が残っていたものだ――
香をベッドの上、俺の上に引きずりあげた。

「ほら、これで体温が判る」

そう言って額と額を合わせる。
ハリネズミだって唯一、腹だけは棘が生えていないのだから。

「ちょ、ちょっとリョオ!」
「何もしねぇから」

これは誓って真実だ。正直、行為に持ち込む気力も体力もない。
ただ、こうして香の体温を感じたまま眠りにつきたかった。
そうすれば誰も傷つけず、誰にも傷つけられずに済むのだから――。

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