Off-white Day

ホワイトデーだからといって仕事は仕事
どこかの誰かさんみたいに浮かれてなどいられない。
社長兼調査員1名だけの零細探偵事務所
たかが浮気調査でも全社挙げての大仕事だ。
マルタイが予想の時間になってもホテルから出てこなかったうえ
明日は別の案件の報告に行かなければいけない。
おかげでその後、事務所で遅くまで報告書書きだ。
職住近接のいいところで、ドアを開ければすぐベッドルーム
今夜はこのままどこかに行く気も起きなかった。

1ヶ月前はそれほど忙しくもなかったから
あの晩は飲み友達と大いに騒いだっけ。
チョコこそばら撒かなかったものの(だってそんな柄じゃないし)
「今夜はバレンタインだからあたしのオゴリよーっ!」なんて
酔いが醒めたら真っ青になりそうなことを口走っていたような。
だから今夜は、いつもの店にいれば誰かが
お返しに美味い酒を飲ませてくれることだろう。
でもその気力もすでに尽き果てていた。

このままお風呂入って寝ちゃおー、
ああ、お湯張るのめんどくさいからシャワーでいっかぁ
などと仕事場とプライヴェートスペースを分ける廊下をとぼとぼと歩いていたら
ぐぅ〜、と辺りをはばからず腹の虫が声を上げた。
一人暮らしで良かったわ、周りに人がいたら絶対聞こえていたから。
確かに夕飯も夜食も取らずに報告書書きに勤しんでいた。
キッチンの冷蔵庫には何かしら食材はあったはずだけど
これから料理するというエネルギーももう無い。
しょうがない、面倒だけど外で何か買ってこよう。
ちょうど近所に美味しいお惣菜屋さんがある
そこはオーガニックだ何だとこだわっているから値は張るけれど、美味しい
疲れ果てた自分にそれくらいのご褒美はあってしかるべきと
住まい兼事務所の玄関ドアを開けると、

「よっ、遅いじゃねぇか」

彼がいた。

「どーしたのよ、撩。こんなところで」
「どーしたもこーしたもねぇだろ。今日は何日か判ってんだろ?」
「3月14日、だけど……」
「ほい、これ」

と言って差し出されたのは、小さな紙の手提げ袋。

「先月俺にくれただろ?そのお返し」
「いいのに、わざわざあたしにお返しなんて」

そう、あたし以外に彼にはバレンタインのお返しを
しなければならない女性がこの新宿に山ほどいる。
歌舞伎町の綺麗どころからはどうせ義理兼営業だろうけど
そのお礼をしないとなると、来年までツケでは飲ませてくれないだろう。
そして――たった一人の本命にも。

先月の14日、わたしもそれなりに付き合いのある人たちに
チョコレートを配っていた、「お返しは要らないわ」との断り付きで。
義理――と呼ぶにはあまりにもビジネスライクすぎる
要はただ、その『祭り』に加わりたかっただけだった。
店先で中身のグレードと値段を見比べながら、どれがいいか迷う
それだけで「一人じゃない」と確かめたかったのだ。

わたしにだって、友達ぐらいはいる。
顔を合わせてはグラスを交わしながら
男たちの愚かしさを肴に盛り上がる女友達や
そんな愚かしさを判っていながらも
ひとときの遣り取りに胸を躍らせる男友達、
独り寝が淋しい夜だって、電話一本で何とかなったりもする。
だけど、彼らはみなわたしの心の奥まで踏み込んできたりはしない。
楽しければそれでいい、上辺だけの繋がり。

昼間は仕事に没頭して、夜は飲んで騒いで
いい気持ちで誰もいない部屋に帰る
そんな日々に不足を覚えてなどいなかった。
でもときどき、無性に恋しくなってしまうのだ
『運命共同体』ともいえるものに。
喜びと同じだけ、哀しみも痛みも分かち合う
例えば――そう、隣に住む二人のように。

「開けてみろよ」
「いいの?」

寒い廊下に立ったまま、包装紙を器用に開ける。

「なんだ、昨年と同じじゃないの」
「でも、それが好きなんだろ?」

中身は、いわゆる老舗と呼ばれる洋菓子店の
クリームを挟んだビスケットの詰め合わせ。
もちろん、それ以外のものは付いていなかった。
だけど、撩が言ったことも事実
子供の頃から到来品のこれが好きだった。
きっと姉さん辺りから聞いたのだろう。
そして、こればかりはきっと彼自ら選んだもの
香さんだったら、もう少し気の利いたものを選ぶはずだから。

「ありがとう」
「じゃあ俺はこれで。おかげでお返し配りに行くのが
遅くなっちまったよ」

と、コートの襟を立てながら
薄暗い廊下を、背を丸めながら去っていった。

とうとう彼とは男と女の関係になりそびれてしまったし
その願いはこれからも未来永劫叶うことはないだろう。
それでも、わたしと撩の間には『隣人』なんて
ありきたりな言葉では零れ落ちてしまうような何かがあるはずだ。
それが何なのか、私には名づけえようがない。
だけど、絆というものは人が二人いれば
その数だけあるものだろうから。

「――調査員、雇った方がいいかしらねぇ」

そう呟きながら、わたしは軽やかな足どりで
手提げ袋を提げながら階段を下りていった。