(s)he

複数の言語をネイティヴ並みに話すことができると
ときどき自分が何語で話しているか判らなくなってくるときがある。
もちろん、いつの間にか相手の知らない言葉で滔々と話しているなんて失態は
酔ったときでもやらかしたことはないが、今みたいに
相手も同じマルチリンガルで、程よくアルコールが入っているときなどは。

「でもってあいつがさぁ」

女同士顔を合わせれば旦那か彼氏の愚痴になるように
男同士の酒飲み話など、どうせ女房へのボヤキ節
(という名の惚気合い、というのは今夜の連れの意見)
だが、

「おい、今オマエ‘he’って言わなかったか?」

と同じくらい酔っているはずのあいつが耳聡く突っ込んできた。
と同時に、さっきまで英語で話していたことにようやく気がついた。

「……聞き間違えじゃないのか?‛he’と'she’って似てるし」
「いーや、はっきりと聞いたぞ。リョウ」
「ああ、俺江戸っ子だから『ひ』と『し』の区別ができねぇんだわ」

見え透いた言い訳に目の前のバーテンダーも苦笑いだ。
だいたい英語というものは日本語のように
『男言葉』『女言葉』というはっきりした使い分けはないものの
代名詞となると男女の区別をつけなければならなくなる。
だとしたらオカマはどうなるんだ、それも見た目もほぼ女というのではなく
『エロイカ』のエリカママのようなあからさまな元男の場合は。
もっとも英語なんてのは、総てのものが男か女かどっちかという
フランス語なんかに比べればマシな方なのかもしれないが。

確かにときどき、俺は香が女だということを忘れてしまうときがある。
初めて逢ったとき必ずと言っていいほど頭の中ではじき出すのは
目の前の人間が男か女かという判断だろう。
それはたいてい瞬時に済んでしまうものだから
取り立てて意識することがないだけだ。
だから、やたらと目鼻立ちのくっきりしすぎた女のように
どちらとも取れそうな場合は、何となく居心地が悪いのだが。
そして、性別による分類が終われば自ずと
男なら男に対して、女なら女に対しての接し方の使い分けをすることになる。
それは、女=もっこりの対象というだけではない
自分とは明らかに違うカテゴリーの人間として。
確かにそれは区別というより差別かもしれない
だが、もはやそれは無意識の条件反射のようなものなのだ。

幼いころから女という存在とはあまり縁が無かった。
ゲリラの中にも女性はいたが、前線で共に戦う女兵士ではなかった。
村に残って貧しい子供たちに読み書きを教える彼女たちの姿は
まだその生徒たちとさほど変わらない自分にとっては
別の世界に属しているように思えた。
その次に知り合った女といえば、兵隊相手の娼婦
――ますます彼女たちからかけ離れた存在。
戦場から抜け出して裏の世界に身を置いてからも
それは大した違いはなかった。
女の同業者もいたが、彼女たちのほとんどはやはり
俺たちとは異なる性を武器とする連中ばかりだった。

だがあいつ――香は
始めて出逢ったときの印象を引きずったままなのかもしれない。
男とも女とも判別のつきがたい、もしかしたらそのどちらかに分化する前の
もう一つの姿なのかもしれないと、一瞬判断を留保した。
だからなのかもしれない、俺にとって香は
女というより、一人の「香」という名の人間なのだ。

もし出逢ったときに俺があいつを「女」とみなしてしまったら
心のどこかであいつとの間に障壁を立ててしまっただろう。
あいつを、その他大勢ごたまぜの平均的な「女」のカテゴリーに放り込んで
女ってやつはこういうものだと勝手に決めつけ
それ以上の奥底を覗き込むことなどなく。

でも香は違う。
ボクシングの中継を見ながら、いつの間にか同じように
同じところで熱くなったり
たまには二人して缶ビールを開けながら
くだらない愚痴の言い合いになっていたり
(たいてい俺より酒の弱い香が一方的に愚痴るのだが)
気がつけば女相手には見せたことのない姿を
あいつの前ではさんざん晒してきたのかもしれない
俺の可愛い弟分の「カオルくん」として。

「だいたいオマエっていうヤツは
カオリだってああ見えて、ひとりのレディとしてだ――」

おーおー、酔っ払いが熱弁をふるってやがる
考えもろくにまとまっていないくせに。
「ああ見えて」なんて言ってるお前の方がよっぽど失礼だろうが。
でもな、しょうがないだろう
優しく抱きしめても挙動不審になるのがオチだ。
それよりかは、サムズアップに同じく
サムズアップで応えたときのあの笑顔、
そっちの方がよっぽどキラキラ輝いていやがる。
それに、ああ見えてひん剥いちまえば中身は立派な女
ハダカのときさえ然るべく扱ってやればいいのだから。

「言っちまうぞ、カオリに。
オマエがカノジョのことをオトコ扱いしてるって」

どうぞご自由に。それはあくまで香のことを
一人前の相棒として評価しているということ。
あいつもきっと判ってくれる……はず。