【98/hundred】みそぎぞなつの

風そよぐ ならの小川の夕暮れは
みぞぎぞ夏のしるしなりける

「おーい、準備はできたかぁ?」
「うん、もう大丈夫……だと思う」

思うって何だよ。

「チケット持ったか?」

前にこれをやらかして、途中でクーパーをUターンなんていう
憂き目に遭ったこともある。するとやはり前科一犯らしく、

「あっ!」

と声を上げながらリビングを飛び出していった。

「だいたいおまぁがマニキュア塗り直しなんかしてるから」
「あんたがコーヒーなんて頼むからこうなったんでしょ?
まだ中途半端に乾く途中だったんだから」

と言う香の指先には、いつもと違う水色のネイルエナメル。

「だったら塗らなきゃいいだろうが」
「だってメイクは汗で落ちちゃうけど、これなら落ちないじゃない」

まぁ、化粧と違って乾くまでに時間がかかるのだが。
ということは、今日のあいつは正装のつもりらしい
白地のTシャツにジーンズという、俺の眼からすればいつもの格好だが
そのTシャツだって今日のために選んだ新品だという。
もちろん俺は赤のTシャツにジーンズという、これまたいつもの格好。

今日は年に一度の野外ライヴ。

香も俺も熱心なファンというわけではない。
アルバムだって、売り上げに貢献しているわけでなく
毎年借りてはカセットに録音しているだけだ。
それが夏の間はカーステレオにささりっぱなし
あいつの、というか俺たちの感覚としてはいわゆる「季節商品」
夏にスイカを買って食うようなもの。
となると、今日はさしずめ「盆踊り」というところか。

そんな俺たちでも充分に楽しめるほど彼らのライヴはサービス精神豊かだ
音楽を聞かせるのみならず、花火や水などの特効でこれでもかと場を盛り上げる。
俺としてみればそんなことより、もっこりダンサーの美女の方が楽しみなのだが。

「今年こそ水かぶれるかなぁ」

そう呟く香の手許のチケットを覗き込む。

「無理だろ、アリーナでも後ろの方だぜ」
「あーあ」

毎年毎年、たとえスタンド席でもビニールシートに着替えという
「水かぶり」に準備をしている相棒が盛大に溜め息をついた。

「んなのファンクラブかコネでもなきゃ無理だろ」
「そっかぁ……」

そもそもそんなど真ん前などライヴを楽しむ席ではない。
今年の俺達くらいの辺りが全体を見渡せて、音もよく聞こえるはずだ。
だが、あいつの楽しみは他にもあるらしく

「そういや決めたか?今日の昼飯」

前にずいぶん熱心に雑誌の中華街特集を見つめていたのだが、

「ううん、今年も行き当たりばったりでいいでしょ」

と、さも「そっちの方が楽しそうじゃない」という口ぶりだ。
まぁ確かに、中華街に外れの店はまずないが
歌舞伎町の裏通りにも同じくらいの店はある、知られていないだけで。

「それに迷っちゃうのよね、中華街っていっつも」

何でも、風水のお告げらしく東西南北に45度曲がっているので
人間のコンパスが異常をきたしてしまうらしい。
その迷子もまた楽しめてしまう街なのだが。

「そして、ライヴの前に肉まんで腹ごしらえして
あ、タピオカミルクティーってのもいいわよねぇ。
その前に昨年買ったジャスミン茶また買わなきゃ」

って、野外ライヴに行くのか中華街観光なのかどっちがメインなんだ。

「それとも今年は元町行ってみる?」

そこまで足を延ばすのならば、

「なぁ、山下公園行ってみないか」

いつかのデートの最終地点――行ったらお前は気づくだろうか
俺がお前だって気づいていたことに。

「あっ、そうだ!夕飯どうする?」

――って、聞いてなかったなおい。
まぁ、どうせ中華街から山下公園では
スタジアムとは反対方向だ。

「中華街ってけっこう9時には閉まっちゃうし
開いてる店もライヴ帰りで満員になっちゃうから……」
「山下町まで行けばいい店知ってるぜ」
「えっ!」
「っていっても飲み屋だけどな」

すると香の表情に逡巡の色が浮かぶ。
今さら飲んだら乗るなと堅苦しいことは言わないものの
横浜から東京までの中距離ドライブ、高速道路付きだ。
「いっそ泊まってくか?」と冗談でも言ってしまえればいいのだろうが。

「判ったよ、一杯だけ。な?」

どうせ近辺の宿は東日本各地から集まってくる熱心なファンで
とっくに埋まっているだろう。飛び込みで泊まろうものなら
それこそラブホテルくらいしかないだろうけど
そんなところに連れ込もうものなら
あいつのハンマーの下で一夜を過ごすのがオチだ。

「じゃあそろそろ行くか、パーキングが満杯になる前に」
「あっ!」

と再び香が叫び声を上げる。どうしたんだ、チケットはもう持ったはずだ。
今年の新曲のカセットはクーパーの中にいれっぱなしだし。

「予習用のテープ!」
予習!?

「野外の定番だけダビングしといたのよ。
それ聴いて振り思い出さなくちゃ」

おいおい、首都高でそれを延々と聞かされるのかよ。

「だって、本番までにテンション上げとかないと」

――さんざんそれまで暑いのなんのと文句を言ってきたくせに
お盆を過ぎて朝夕少しずつ涼しくなってきた途端
「もうちょっと暑さが続いてくれないと」なんて手のひらを返す。
せめて今日までは、と。
おかげで今年も猛烈残暑、熱帯夜間違いなしだ。
火照った肌に海へと吹き下ろす風が心地よい夜になることだろう。

朝晩はだいぶ涼しくなったけど
野外ライヴは真夏のしるし