禁断の果実

「撩、桃食べちゃって」

夕食の後、今日は大人しく飲みに行かない俺の前に
大ぶりの白桃がどどんと置かれた。

「桃ぉ?」
「そっ。貰い物だったけど最近、デザートどころじゃなかったから
すっかり食べそびれちゃってたの」

確かに、ようやく厄介な依頼が片づいた。
それまでは帰って食って風呂入って寝て
朝起きて仕事という毎日だったから
こうしてゆっくりする暇もなかった。

甘いものは苦手な俺だが、フルーツは別だ
むしろ子供の頃のおやつ代わりだったから
食べ慣れた甘さと言えよう。
もっとも、熟し切った南国の果物の中には
ショートケーキなど目じゃないような激甘も少なくなかったが。

一方、目の前の白桃は東洋原産
甘いということにかけては他の果物に引けを取らない。
なので、どちらかというと好きこのんで食べる方ではないのだが
香の断定的な命令口調がやや気になったので
とりあえず手に取ってみた。

「おい、これずいぶんと傷んできてるんじゃねぇか」

そう、ところどころ傷になっていて
その周りから褐色の小さな染みが出来ていた。

「だから食べちゃってって言ったのよ。
仕事で忙しくしてる間に悪くなりかけちゃったんだから」

と言うと、香もまた不格好な桃を手に取り
指で皮を剥き始めた。

桃といえばこっちでは桃太郎や西王母の仙果などめでたいイメージだが
英語圏では美味だが傷みやすいということで
「若くて魅力的な娘」というニュアンスが付いて回る。
ということは、香はまさにこの傷だらけの桃なのだろうか。
次の誕生日が来ればもう28歳、30まではあっという間だ。
適齢期=クリスマスケーキという喩えはもう古いかもしれない。
だがそれは、きれいな身体でヴァージンロードを歩けた時代のもの
そういう意味ではその喩えはまだ有効なのかもしれない、香には悪いが。

俺もまた桃を手にすると、皮を剥こうとする。
指でするすると剥けるのは食べ頃の証拠
まだ熟していない桃は刃物のお世話にならねばならない。
では、熟しすぎた桃はというと
皮が軟らかすぎてぶちぶちとすぐ破けてしまう。
傷んだ箇所を指先で穿り、一口分だけ半裸にすると
やや黄身を増した柔肌に齧りついた。

「――甘い」

今まで食べてきた桃は何だったのかというほどの甘さだ。
缶詰のシロップ漬けのように砂糖の甘さを借りたわけでもなく
桃そのものの甘みを何倍も濃縮したかのようだ。
もはやそれは別次元のものと言ってもいいだろう。

果物は腐る寸前が一番旨いという。
まさにそのとおりだった。
この桃は、今日食べなければあとは冷蔵庫で朽ちていく一方だったろう。
だとすれば、目の前のpeacherino(かわい子ちゃん)も
今が一番の食べ頃なのだろうか?
クリスマスケーキなどくそ喰らえ、20代の小娘など
まだ青味の残るトマト、染み一つないバナナに等しい。
これから追熟させてなんぼだ。
なら、香もまだまだこれからなのか?それとも――

じゅる、と音を立ててあいつが滴る蜜を啜る。
それは果実から香の両手へと溢れるように流れ出ていた。
普通の桃より濃厚な蜜。

おそらく、エデンの園には桃はまだ生えていなかったに違いない。
あったらそれこそ林檎以上に禁断の実に相応しいだろう
白く、甘く、柔らかく、芳しい蜜を滴らせる果実。
むしゃぶりついたら最後、虜になるまでだ。

芯の最も柔らかい果肉を舐る香の眼が
艶めかしく俺を射抜く。
共にこの楽園を追放される覚悟はあるかと。