1993.5/とんだとばっちり
《SIDE M》
いつものようにドアベルを鳴らして入ってきたのは
久々に顔を見せるかつての常連だった。
いや、久々といってもほんの数日ぶりだったかもしれない。
でもその数日の間にあった出来事は、その前後を
くっきりとした境界線で仕切るのに充分だった。
「あら、香さん」
「こんにちは美樹さん、それに麗香さんも」
にっこりと人当たりのいい笑みを浮かべる彼女は
前と変わらないいつもどおりの香さんではあったものの
その物腰に何かしらの変化――成長、といってもいいかもしれない――を
感じたのはわたしだけではないはずだ。
確かに、あれだけの修羅場を潜り抜けたのだもの
人間として一皮も二皮も向けて当然よね。
「伝言板見に行った帰り?」
「そう。撩もすっかり元どおりで毎日家でゴロゴロ。
結局あたしに全部任せるつもりなんだから」
「あれ、もう撩のところに戻ったの?」
居合わせた麗香さんが口を挟む。
そのことについて彼女が知らないはずがない
お隣なんだもの、動きがあれば真っ先に気づいて当然なのだから。
「ううん、まだ。でも昼間は撩のところに行って
掃除とか洗濯とかしないとあいつったら全然やらないんだもの」
「あら、すっかり通い婚ね」
「通い婚だなんて……///」
と頬を染めるのは相変わらず。
「じゃあ、引っ越しが決まったら日にち教えてね
あたしたちも手伝いに行くから」
「そんなぁ、悪いわよ。それに引っ越しったってそんな大荷物じゃないんだし」
「いいのよ、そんなに気を遣わなくって。水臭いじゃないの」
といっても香さんは浮かない顔をしていた。
「どうしたの?」
「うーん、最近肩が痛くってね」
そう言いながら、スツールに座ったまま
関節に手を当ててぐるぐると肩を回す。
「あら、大丈夫?」
「もしかして水子の祟りかも」
「麗香さんっ」
あの二人を煽るのが趣味な女探偵が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そもそも香さんに限ってそんなわけあるはずがないじゃない
彼女が想いを寄せる天の邪鬼は一向にその想いに応えてくれないのだから。
それに香さんはその手の話が苦手だということは充分承知だ。
以前、お店でついてたテレビでやっていた真夏の心霊特集で
一人がくがくと震えていたのだから。
そう、今のように……
「ごめん、美樹さん!」
と言うと香さんはお代だけ置いて、脱兎の勢いで店を後にしてしまった。
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《SIDE R》
今日も日がな一日アパートでゆっくりしていると
凄い勢いで香が帰ってきた。
これでもお前のことを気遣ってナンパは休業してるんだ
大目玉は止してもらいたいものだが。
「撩、ちゃんとお払いとか受けてる?」
「お払いって――」
何だよいきなり、藪から棒に。
「ほら、あんたって女好きだからよそにたくさん女作ってたでしょ。
そういうことしてたら、その……出来るものも出来ちゃうっていうか///」
あー、ようやくそのことと「お払い」が結びついた。
「別にあんたがたたられるのは自業自得よ。
でもなんであたしがそのとばっちりを受けなきゃならないの?
そんな、たった一回……シただけで///」
そういえば香のやつ、ここんところ掃除や皿洗いしながら
やたらと肩をぐるぐる回してたっけ。
「痛いのか、肩」
「うん……」
「どうせ一人で荷造りして、重いもの持ったかして
筋伸ばしたんだろ」
「………」
図星のようだ。ほら見ろ、世の中にはちゃんと
科学的な因果関係というものがあるんだ。
そんな祟りだの呪いだのという前に
まずはそっちの方を当たってみないと。
多少血行が良くなれば少しはマシかと揉んでやろうと思ったが
伸ばした手が寸でのところで止まった。
以前は何の色気も下心もなく、肩を揉んだり揉まれたりしていたが
今は些細なスキンシップすら香は全力で嫌がった。
真っ赤な顔をしているのは決して怒りのせいではないだろう。
「風呂入ったら中でよーく揉んどけよ」
「うん、判った」
三食はこっちで俺と一緒に食べているが
入浴は帰ってから、向こうの一人の部屋で寝る前にしているようだ。
それはかつて俺たちが同じフロアで暮らすようになる前と同じこと
その距離が少々広がったまで。
「よかったら俺が揉んでやってもいいんだけどなぁ」
という言葉は香には聞こえない呟きにとどめた。
一緒に風呂に入りたい、なんて言ったら
まだ一度しか経験のないあいつが目を白黒させるに決まっているから。