衣通姫

「あ、撩」

帰り道、アパートも近くなり辺りは繁華街から
都会の中の住宅地へと移り変わっていた。
晩秋と初冬のはざまのこの季節になると
日は早々と西新宿の高層ビルの谷間に隠れてしまう。
群青色の空の下、俺たちの足元を照らすのはまばらな街灯だけだ。

隣を歩いていた相棒が袖を引く。

「ん?」
「見て、月だよ」

彼女の視線の先、そして華奢な人差し指の先には
ビルの頭上に浮かぶ満月があった。
目は俺の方が良いはずなのに、夜空を見上げるのは
決まって香の領分だ。
俺が聞きかじりの天文学で星と星とを繋いで
星座を示してやると、彼女の目は星々以上に輝いて見えた。
俺にとって星の知識は夜、自らの位置を把握するための
生き延びるための知恵でしかなかったのに。

「昼間雨が降ってたのにねぇ」
「ああ、だから朧がかってるだろ」

東の空にかかる月はくっきりと輪郭線を際立たせたものではなく
雨雲の残りに遮られているのか、それでも雲のヴェール越しに
明々とその存在を現していた。

それが、まるであいつのように思えた。

今日の香は「露出は寒さの大敵!」と言わんばかりに
タートルネックにカラータイツ(それも脚線美がなかなか際立つのだが)
その上に厚手のスタジャンなんか羽織りやがって
相変わらず色気なんて微塵も感じられない服装だ。
だが、そんなあいつが他愛もない話に笑みを浮かべるたびに
ふわりと周囲の空気が和む。
遠くに視線を彷徨わせるたびに、なぜか心がざわめく。
そんなあいつを見つめる俺の眼と一瞬、視線が絡み合うだけで
胸の奥で暖かさと熱さが綯交ぜになったような感情が込み上げるのだ。

端的に言えば、香は綺麗になった。
今まではいい齢をして、まるで少年のようですらあったが
ようやく遅ればせながら、あいつという花にも
盛りの季節が巡ってきたということだろう。
もちろん、それだけではないのだが。

とはいえ、あいつの見た目は相変わらず「少年のよう」ではあったが
その内側から放たれる何かが変わったことを
感じているのは決して俺だけではないだろう。
――昔々、衣通姫(そどおりひめ)と呼ばれる美女がいた。
その美しさは身にまとう衣を通して
輝くほどであったということから、その名で呼ばれるようになったという。
まるで、厚い雲越しに光を放つ今宵の月のように。

だが、自分の相棒兼オンナが綺麗になったことを
喜べるほど俺は決して素直ではなく
あいつが無自覚に振り撒く光に少々頭を悩ませている。
もちろんそのうち半分は俺の手柄みたいなものだが――
触れるもの総てが金になってしまったというミダス王の苦悩が
今なら一緒に酒を酌み交わしたいほどよく判る。

「どうしたの、撩?」

その場から立ち去りがたそうな俺に香が振り返った。

「ん、なんでもない。
早く帰ろうぜ、さすがに冷えてきた」

アパートに帰れば、じきに暖かい夕飯にありつける。
それよりは柔肌に温めてもらった方が俺としては有難いのだけれど。
――朧の薄衣を脱ぎ捨てた彼女の、目も眩むような美しさは
俺だけしか知らないのだから。