1985.3.29/GOOD NITE, DARLIN'

「それで妹さん、無事帰ってこれたの?」
「ああ、なんとか。今回は撩に助けられたが、それで
香をあの女好きに引き合わせる羽目になるとはな」
「でも、これからも彼と組んで仕事していくんだったら
遅かれ早かれそうなったんじゃないの?」
「まぁ、そうなんだが……」

浮かない顔の俺の目の前から空になったグラスを引き下げると
中に再びウィスキーと水を注ぎ、溶けかかった氷をカラリとかき混ぜた。
そして反対側に座る女は同じボトルを今度は自分のグラスに
だぼだぼと傾けると、何も割らずにくいと口をつけた。
彼女――冴子は俺よりもアルコールには強かった。

俺と彼女は撩をはじめ世間一般からは恋人と目される仲だ。
もっとも、彼女の親父さんをはじめとして世間には
知られてはいけない仲ではあるが。
ただ、俺にとっての冴子の存在は、まだ俺が警察に籍を置き
彼女が相棒だった頃とそれほど変わってはいない
少なくとも自分の中では、彼女にとってはともかく。
なぜ俺が彼女に心惹かれたか――思いついた理由は意外とシンプルだった。

今まで俺にとって女性というものは、妹をはじめ守るべき存在だった。
学生時代も恋人がいたことはいたが、彼女たちもそうだ
ときに頼りにされ、ときに甘えてくる愛おしい存在。
だが冴子はそんな女性たちとは全く違っていた。
甘えることなく、頼ろうともせず
むしろ男の俺たちを引っ張って事件を追い掛けようとする。
彼女と意見を戦わせているときは、女であるということを忘れていた
男と女の関係となった今であっても。

「それで、どうなの?」
「どうって、何が」
「撩と妹さん――香さん、でしたっけ。
あなたが心配したとおりだった?」
「それが……」

俺にとっては自慢の、可愛い妹のはずなのに
撩の眼にはまるで男にしか映っていないようだった。
逢うたびに「カオルくん」だの「弟の間違いだろ」と
失礼にも俺の目の前であっても舌鋒を緩めることはなかった。
にしては、ほんの3日前に初めて出逢ったというのに
まるで仲の良い兄弟のようにすっかり打ち解けて見えるが。

「だったら大丈夫じゃない。かえって安心なんじゃないの?
撩と引き合わせないようにしようって余計な労力使わないで済んで」
「まぁ、それはそうなんだが……」

ともかく、冴子と話していると時間を忘れる
アルコールが入っていればなおさら。
話の腰が折れたついでに、左手首に目をやった。

「―――!!」

すでに、終電は無かった。
呆然と座り尽くす俺の背中を、暖かく柔らかなものが包み込んだ。

「――冴子、謀ったな?」
「ごめんなさいね。こうでもしないと一緒にいられないから」

確かに、俺と冴子の逢瀬はままならないものだった。
人目を忍ばなければならないこともあるが
それよりも忍ばなければならなかったのは、妹の目だった。
傍から見れば普通の恋人関係だっただろう
それでも俺にとってはどこか後ろめたさがあった。
妹につく悪い虫に気を配り続けてきながらも
その自分が悪い虫になっているのだから。

「帰る」

その温もりを振り切って立ち上がろうとしても
冴子は俺の背中にすがりついた。
だが、彼女の言葉はそんな愁嘆場から程遠いものだった。

「タクシー代、あるの?」
「………」
「ちゃんと撩から月々貰ってる?」
「貰って……はいるが」
「それだって無駄遣いはできないわよねぇ
香さんの学費だってあるし」

学費の安い看護学校を妹は選んだようだが
それだって只というわけではない。
それに、学校を出れば終わりというわけではない
香の結婚資金だって貯めてやらねば、いくらあいつが断ったとしても。
兄一人妹一人だとしても肩身の狭い思いをさせるわけにはいかない。

俺は力なく、スツールの座面に腰を落とした。

「――悪いが今夜は、指一本触れるつもりはないからな」
「いいわ」
「始発が出たら、その足で帰る」
「判ってる」
「じゃあ、有難くソファをお借りすることにするよ」

何で据え膳食わないんだと、相棒は声を荒らげるだろう。
だが世の中には俺みたいな男だっているのだ
その気がなければ、どんなご馳走だって箸をつける気になれない男も。

「すまないな、期待を裏切ったみたいで」
「かまわないわよ、裏切ったのはわたしの方」
「この埋め合わせは次するよ」

謝罪の意を込めて後ろを振り向き、口唇を重ねる。
冴子は隙をついてその間から舌を差し込もうとするが、そうはいかない
今夜許されるのはここまでだ。

「それにしても、帰ったら香に叱られるな。
自分にばっかり門限厳しくしておいて、その俺が破ってるんだから」
「香さん、今夜は?」
「確か友達と誕生日の前祝いにつれてってもらってるとか」
「ふぅん、『友達』とねぇ……だったら大丈夫なんじゃないの?
あなたが始発で帰ってきても」
「――おい、それどういうことだ!?」

――あのとき、俺も冴子も考えが甘すぎた。
「次」の機会があることを信じて疑わなかったのだから――