あばよ、とっつぁん

こんな夜は一人で素面でいたくなくて
夜の街をふらつきながら、とある店のドアを押した。
喪服姿なのもかまわずに。
このまま真っ直ぐ帰って、マンションの玄関先で
お清めの塩をぱらぱらと頭上に振りかける気分にはなれなかった。

地下のカウンターだけの小さなバーは
賑わっているとは言い難かったが、一人先客がいた。

「よぉ、冴子」
「撩……」

「どうしたんだよ、その格好。
ま、黒のワンピースってのもなかなかセクシーだよな」
「見りゃ判るでしょ、お葬式の帰りよ」
「奇遇だね、俺も今夜は弔い酒なの」

顔には出ていないものの、酒量はずいぶん進んでいるようだ。
おかげで店の老バーテンダーも撩にかかりきりになってしまっている。

「で、誰が死んじまったんだ?」

相変わらず飄々と彼は尋ねてきた
こっちの哀しみなど気にしたりはせずに
本当に彼も弔い酒なのか訝しいほどに。

「わたしが現場研修が終わって、配属された先の上司だった人よ。
といっても彼は叩き上げのベテラン刑事だったんだけどね。
ずいぶんと厳しい人だったわ。相手がキャリアだろうが
警察幹部のお嬢様だろうがおかまいなしによく叱られたものよ。
頑固親父というか、どこか近寄りがたいというのかしら……
実の父がああだったから、当時は理想の父親みたいに思っていたわ。
でもお茶目というか、可愛らしいところもあってね――」

頼んだシェリーが減っていくたびに、口唇は滑らかになり
彼の想い出話を次々と披露していた。
なのに撩は、今夜は誰の弔いなのか明らかにもせず
ただロックのグラスを口元に運ぶだけだった。

「――そうそう、よく飲みにも連れてってもらったの。
ここも彼に連れてきたもらった店だったわ……」

そのとき急に撩のポーカーフェイスが小さく動いたのを
これでも長い付き合いからか、この眼は見逃さなかった。

「でも、来たのはそのとき以来かしら」
「ふぅん……で、どんな奴だったんだ?」
「ええ、そのときはもう本庁にいたんだけれど
ずっと新宿の所轄にいたって言ってたわ。
だから、この街は彼にとってはほとんど庭みたいなもので
夜の通りを歩いていても、よく店の人や
それ以外のよく判らない人にまで声をかけられていたわ、
まるで今のあなたみたいに」

そこまで言うと、撩はカウンターに頭を突っ伏していた。
そして、

「まさか本当に刑事(デカ)だったのかよ、とっつあん」

と呻くように呟いた。
カウンターの向こうの老バーテンダーは、やりとりから
すでに亡き人の正体を判っていたらしく
したり顔の笑みを浮かべながらグラスを磨いていた。

「知ってるの、撩?」
「知ってるも何も、俺にとっちゃ
この街の師匠みたいな人だぜ。
まぁ、刑事だってはっきりその人から
聞いたわけでもないからな」

撩の言葉が私には意外だった。
あの厳格な、刑事の鑑ともいうべき人が
まさかこんな殺し屋と飲み仲間だったとは。

「でも、人から聞いたりして薄々とは知ってはいたよ」
「まさか撩、彼もあなたのことを……」
「ああ、知ってたんじゃないかな。
お前の言うとおり有能な刑事だったら当然のことだろ」

と撩はいたって意に介さない。

「あの頃は俺もこの街に来たばっかりの頃だったからな
ずいぶんとあちこち案内されて飲み歩いたもんだよ
おかげですっかり俺にとってもここが『庭』ってくらいに。
よく怒られもした、あのダミ声でな。
だけど粋で渋くて――」
「憧れた?」
「まさか。ただのさえない地方公務員だろ?」

そう眉をしかめながら破顔する撩は
バーテンダーに頼むとグラスをもう2つ追加した。
そして一つを私に差し出すと、おもむろに
傍らにあったスコッチの中身をそこに注ぐ。
スコッチウィスキーは正直、あまり撩には
似合っていないような気がした。

「今夜はとっつぁんのボトル、全部空けちまおうぜ。
もうどうせ誰も飲まねぇんだからな」

と言うと、残ったグラスにもウィスキーを注いだ。
そして、それを手にし軽く掲げると

「判ってたんだろうよ、デカとして
法だけじゃこの街は守れない、
悪党に悪党を狩らせた方がいいときもあるってな」

自分のグラスをそれに軽くぶつけた。
私も注がれたグラスを手を伸ばして
その『先輩』のグラスに触れさせる。

あの人はもうこの世にいない。
けれども、その志を受け継ぎ
この街を守ろうとする者たちは今もいる
少なくとも二人、今この店に。
もっとも、こんな酔っぱらいのひよっこでは
泉下の彼にとっては頼りない後継者かもしれないけれど。

「あばよ、とっつあん」

その言葉は私には口にできない。
でも彼に最もふさわしい別れの言葉だと思った。

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