1993.10/German measles

この人がここに来るのは珍しいことだった。
いや、用も無いのに来るのはしばしばで
そのたびに教授と他愛ない『男子トーク』を繰り広げていた。
けれども、この人が‘用があって’来るのは意外だった。
年に一度の健康診断くらいここでいいからちゃんと受けなさいと
口を酸っぱくして言っているにもかかわらず
のらりくらりとかわしているあの歩く不摂生男が。

「風疹の予防注射受けなきゃCat'sに出入り禁止っていうんだぜ」
「海坊主さんが?」
「そっ」

いい齢して風疹の免疫を持っていないというのが
私には意外であったけれども、

「かかったわけないだろ、そんな温帯地方の風土病」

と言われてしまうと自分の常識が
いかに狭いものだったかと思い知らされてしまう。
まぁ、私は確か中学生のときに受けたと思うのだが。

「香さんは?」

私と同年代だからたぶんそうだろう。

「ああ、あいつは昔、幼稚園だか保育園だかで
貰ってきてかかったことがあるって言ってたな。
だからあいつだけ店に入れて俺は門前払い。
ねー可哀そーでしょ慰めてよかずえちゃん」
「ふぉっふぉっふぉ、それも無理も無かろうて。
あの大男でも初めての子供となれば
あれこれ過保護になっても当然じゃろ」

そう教授は、さも自分の孫の誕生を
待ちわびるかのように目を細めた。

「おなかの赤ちゃんが風疹にかかると
いろいろ障害のもとになるっていうわ」
「美樹くんもお前さんと育った環境は似たようなもんじゃから
おそらく免疫は持っとらんじゃろう。かといって
妊婦にワクチンは打てんからのう」

そういえば前に彼女が言っていたっけ、
この子ができる前に予防接種をしておけばよかったって。
だから、対策としてはウィルスキャリアを近づけさせない
という手しか取れないのだ。

免疫を持たない妊婦が風疹ウィルスに感染することによって起きる
先天性風疹症候群の症状としては、生まれてくる子供の
心臓の奇形や耳の障害、先天性白内障などが挙げられる。
――ああ、だからか。

一見、目に障害を持ちながらも普通の人と変わらない
生活を送っているように見える海坊主さんでも
好きこのんで我が子が同じ障害を持って
生まれてくることを望んだりしないだろう。
そのためなら、多少強硬な手段をとってでも
その危険を排除しようとするはずだ、父親なら。

「お前さん自身のときのこともある、
今のうちに受けておいてもよかろう」
「えー、俺のときですかぁ?
あるわけないじゃないですか、俺のガキだなんて」

あのときはそんなことを言っていたけれど
その翌年には、あのとき予防接種を受けておいてよかったと
心の底から思ったに違いなかっただろう。

NHK NEWS WEB ストップ風疹〜赤ちゃんを守れ〜