1995.5/いらかの波と

こどもの日、古い言い方をすれば端午の節句でも
こうビルが立ち並ぶ都会では鯉のぼりどころではないと
旧友がぼやいていると、仲間内では唯一の一戸建ての
元傭兵の喫茶店主が太っ腹にもポールを貸し出すと言ってきた。
おかげでCat'sの頭上には鯉のぼりが3セット
合わせて1ダースほどたなびいていた。
猫だったら距離も忘れて思わず飛びつこうとしてしまうだろう。
そんなわけで初節句の祝い事もまとめてやってしまおうという
話になったが、男の子の節句だからうちでは関係ないはずが
甥っ子のお祝いでもあるからと、香のやつが
近所で評判だという柏餅をしこたま買い込んで
Cat'sへやってきた、俺と子供も引きずって。

「わぁ〜、立派な兜」

伊集院家のプライヴェートスペースのリビングには
堂々と兜飾りが鎮座ましましていた。

「ふんっ、和室があればよかったんだがな」

とは言うものの、サングラスの奥は得意げだ。
現に、ちょうど1歳になろうとする
(にしてはまるまると大きい)我が子を抱える美樹は
満面の笑みだった。

「でもこの真ん中の十字のマークは?」

そう香が“鍬形”の真ん中にある紋所を指差した。
日本史には疎い俺だが、それについて尋ねれば
どうなるかは何となく見当はついた。

「この兜は島津家17代当主、義弘公の兜でな――」

とその名のとおり「ザ・薩摩隼人」のタコ坊主のことだ
朗々と九州統一の戦いや関が原での活躍を語り出した。
それにはいくら日本育ちでも香についていけるわけがなく
理解できるのは、ああ見えて歴史に詳しい槇村や
意外にも何にでも興味を示すミックくらいだろう。

「そういえばアニキのとこは飾ってるの?五月人形」
「ああ、それがな……」

少々言い渋っているところ、「それがね」と嫁がしゃしゃり出た。

「初孫が男の子で大喜びだったんだけど
やっぱり娘ばっかりだとね、センスがそうなっちゃうというか」

そう言って冴子が見せた写真は、小生意気な赤ん坊と
その後ろに大仰に飾られていた七段飾りの
まるまるとした鎧姿の人形だった。

「あら〜、可愛いじゃない〜」
「でもあんまり可愛くてもね、男の子の節句だから。
そういえばミックのところは?」

と訊かれて、待ってましたとばかりにやはり写真を取り出した。

「おおっ、黒漆五枚胴じゃないか」

正式名称がすらすらと出てくるのは、さすが槇ちゃん。

「これって独眼竜政宗の兜でしょ?」

香もこの主は知っているようだ。そういえば俺もずいぶん前
あいつに付き合わされて見ていたドラマで見覚えがあるような。

「Really?誰の鎧かは知らなかったんだけど
カッコよかったからね、まるでDarth Vaderみたいで」
「実際、ルーカスはあの鎧からインスピレーションを得て
ベイダー卿の衣装をデザインしたらしいわ」

との妻の補足説明に「Is that so(そうなのかい)?」と
奴は驚いてみせた。そんなやりとりをよそに
香はふと窓の外を見上げていた。
ちょうど風の具合でそこからは伊集院家にたなびく
3組の鯉のぼりの様子が見えた。
そして、何となしに口をついて出たのは

  いらかーのなーみーと
  くーもーのーなーみー

その歌を知らないわけではなかった。
だが、それほどこの国に詳しくない俺でも
鯉のぼりといえば「屋根より高い」の方だと思っていた。
だから香の口唇からその歌詞が漏れてきたのが
意外といえば意外だった。

「あ、なんかこっちの歌の方が好きなのよね。
アニキから教わったってのもあるし」
「槇村から?」

俺の怪訝な表情を察したのだろう
すかさず訳を切りだした。
視線は妹からその兄へと向かう。

「ああ、あれって母親が出てこないだろ。
大きい真鯉はお父さん、小さい緋鯉は子供たちって」

そういえばそうだ、赤といえば女になりそうなものを。

「うちもそうだったけどさ、だからといって
歌の中でも母親不在ってのもどうかなって」

二人の母親が亡くなったのは、香が物心つく前だったという。
俺だって両親の顔も名前も覚えていないのだ、
あいつの想い出話に母親のことがほとんど出てこないのも
当然の話だった。それでも兄は妹の中から
母親の存在を消させたくはなかったのだ。

「そう……だったんだ」

と呟くように口にすると、腕の中の我が子に視線をやった。
ようやく生後1ヶ月を過ぎ、外にも出られるようになったばかりのひかり
血は繋がっていなくても、ほとんど記憶に無くても
この子もまた繋がっているのだ、香を通して。

「たーちーばーなかーおーるー
あーさーかーぜーにー」

言葉に詰まった香の代わりに、冴子が歌を引き継いだ。
そして、

「「「たーかくおーよーぐーや
こーいーのーぼりー」」」

と、日本育ちの連中に限られるが声がそこに重なった。
驚いたことに美樹まで、おそらく小さい頃に
亡き両親に教わったのだろうか。
海坊主のバスまで重なったのには参ったが。

現代の今日は男の子のみならず
広く子供の健やかな成長を祈る日でもある。
その思いにのって、鯉のぼりは悠然と
ビルの谷間の窮屈な空を泳いでいた。