【4/hundred】ふじのたかねに

田子の浦に うちいでて見れば
白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

初めてそれを目にしたのは、海の上からだった。

「おーい、フジヤマだぞー」

そう騒ぎ立てる船員にいきなり叩き起こされた。
密航者とはいえ船長以下みな承知のことだったので
船の中では自由に過ごすことができた。
おかげで連中と夜な夜な酒盛りしたり
勝っても何の足しにならない博打に精を出したりと
波の上でも陸地同様の宵っ張りの朝寝坊だ。

それは、今日明日中にも東京港に接岸しようという頃。
すっかり仲良くなった船員たちに促されるまま
まだ顔も洗っていない目を擦りながら甲板へとやって来た。
そこには非番の乗組員たちも集まって
船縁の手すりから身を乗り出すように、陸地を眺めていた。

「なぁ、キレイだろ?」

と、フィリピン出身だというその船員は
さも自分が日本人のように自慢げに言った。

「船で世界中を回っているけど
こんな美しい山は余所じゃ見たことがないよ」
「へぇー」

そう口では平然を装いつつも、俺の胸の中にも
何か込み上げてくるものがあった。
もちろん俺はまだこの山を見たことがなかった。
もし仮にあったとしてもとっくの昔に忘れていたはずだ。
なのに――これは「懐かしさ」なのだろうか?
初めて「帰ってきた」という思いがじわじわと湧いてきた。

日本行きだって、「帰国」という感覚はさらさら無かった。
幼い頃からお前は日本人だとオヤジに言い聞かされていたし
言葉も不自由なく操ることができた。
だが、どこかで今までアメリカ大陸を転々としてきた
延長線上のようにしか思っていなかった。

やはりこの山は、この景色は日本の象徴なのだろう。

「――船乗りの間にはこんな話があってな」

フィリピーノが切り出す。

「日本を去るときに船の上から富士山が見えたら
もう一度この国に戻ってくることになる。
おかげでもう何度も太平洋を行ったり来たりだ
故郷にはさっぱり帰ってないっていうのにさ。
でも、なぜだか呼ばれちまうんだよなぁ
どんな港の女よりもタチが悪いぜ」

そう言いながらもその横顔は
「再会」の喜びに満ち溢れていた。

「リョウ、オマエが羨ましいよ。
だってこれから毎日だって見られるんだからな」
「バカ言うなよ、ここから東京まで
何マイル離れてるっていうんだよ」

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「りょおー、富士山だよーっ!」

そんな昔の夢を見ていたからか、今度は今の相棒に
文字どおり「叩き」起こされた。

「ほらっ、屋上からきれいに見れるんだから!」
「さみいっつーの」

冬の朝は万年Tシャツ一枚の俺でも少々堪える。
だが空気の澄んだこの季節、特にこの時間帯は
遠く離れた東京からでも、この屋上辺りからなら
青い山型が見てとれた、あの日の駿河湾ほどでなくても。

「『半分は江戸のもの』っていうくらいだったから
昔はここからでもよく見えたんだろうけど」
「槇ちゃんか――」

そういう薀蓄を仕込んだのは前相棒に違いない。

「んもう、ちょっとは感動しなさいよ。
この時期しか見られないんだから」
「へぇへぇ」

してるさ、ちょっとは。
相変わらずの宵っ張りの朝寝坊で、暑さ寒さは億劫だから
そうそう滅多にお目にはかかれないけれど
この広い裾野から曲線を描く優美な単独峰は
その形状の美しさ以上のものを呼び覚ましてくれる、今も。
それはこの国が俺の故郷であり、また
ここが俺のいるべき場所であるということなのかもしれない。
だとしたら、隣で一緒にこの山を眺めている香は――

「ねぇ、今度一緒に富士山登りに行こうよ」
「五合目までならな」
「えーっ、美樹さんに一緒に行こうって
誘われてるんだけどな。
あ、ご来光拝めばあんたのもっこり根性も
少しはまともになるかもしれないし」

バカ言え、富士山はな
遠くから眺めるのが綺麗なんだよ。

冬の朝 外に出てみれば ビルの上
富士の頂上 今日も真っ白

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130622/k10015503381000.html