1992.11.9/ツキガ キレイデスネ

すっかりこんな時間になっちまった。
ある統計によれば満月の夜は凶悪犯罪が他より多いとのこと。
「男は狼なのよ」という古い歌はあながち嘘でもなかったようだが
今夜ばかりは「女は狼なのよ♪」だったようだ。

まぁ、俺たちが依頼を受けてマークしていた女が
大立ち回りしてくれたおかげで事件に片がついたのだが
大暴れしすぎてクーパーまでぶっ壊してくれたもんだ。
明日、ほとぼりが冷めてから知り合いに
レッカーを頼む段取りはついたのだが
帰るアシを奪われた俺たちは歩いて新宿のアパートまで
戻る羽目になった。それでも、23区内だったら
歩いて行けない距離ではないのだけれど。
それでも、事件解決の達成感はどこへやら
晩秋の夜道を二人とぼとぼと歩いていると
何となく寂寥感が漂っているように思うのは
俺だけだろうか。

居たたまれなさに空を見上げれば
嘲うかのように月がやけにデカく見える。

「ねぇ、月が綺麗だね」

不意に香が口を開いた。
歩き始めたときはクーパーの修理費用はどうするんだとか
それは依頼主に請求していいものなのかどうかとか
こんな夜中に歩いて帰らなきゃならないのかとか
言うだけ言って、その後ずっと口数が少ないままだった。

「あっ、そういえば『月が綺麗ですね』って
I love youっていう意味なんだって」
「なんじゃそりゃ」

バイリンガルの俺だってそんな迷訳は聞いたことがない。

「誰だっていったかな、昔、学校の課題で
‘I love you’を普通に『愛してる』って生徒が訳したら
普通はそういうことは言わないんだ、そういうときには
『月が綺麗ですね』って言うもんだって」

ああ、なるほど。何となく課題の英文のシチュエーションが見えた。
例えば――そう、今の俺達のような。
確かにアングロサクソンの野郎はこういうときは
隣にいる女に‘I love you’と囁くもんだ。
それは心からの愛の告白なんてもんじゃない
ただ雰囲気に任せての口説き文句に過ぎない。
ちなみに、脳内再現VTRの外人野郎は
あの向かいの住人だというのは言うまでもない。
だとしたらあいつの囁く「愛してる」の何と薄っぺらいことか
正しく日本語にしてみたら「月が綺麗だね」でしかないとは。

それとは対照的に、俺は面と向かって香に
「愛してる」なんて言ったことはなかった。
ただ、あの一年前の湖畔で「愛する者」と呼んだだけ。
その言葉は、俺が彼女のことを愛おしく思っている
という事実をただ表すだけではないからだ。
もれなくその背後に「だから俺を愛してくれ」という
命令、ないしは懇願を伴ってしまう。
それはすぐさま香の心を縛ってしまうだろう。

もちろん、それを拒む自由はある。
だが、あいつにそれができるだろうか。
そう告げれば、自惚れかもしれないが
香は受け入れてくれるだろう。
けれどもそれは、本当にあいつの
本心からの答えなのだろうか。
たとえあいつの心が俺の方に傾いていたとしても
それを無理やり手を引いて
俺の腕の中に閉じ込めてしまう気には到底なれなかった。
あいつから、香の方から俺の胸に飛び込んでこないかぎり。

そして、その言葉は香の心のみならず
俺の心まで縛ってしまうだろう。
あいつを嫌いになることはまず無いはずだ。
それでも、もし想いを告げたら香への愛は
どこかで義務へと変わってしまう。
その重荷をいつか放り投げたくなってしまうかもしれない。

――どうすれば、ただ自分が彼女に対して抱いている感情だけを
それも、未来永劫変わらないものではなく
ただ今この胸の中に抱いているものとして
純粋に伝えることができるのだろうか。

まさか――いや、あいつはそういう天然なところがある。
だがしかし、「月が綺麗」と言っておいて
すかさずあのエピソードを持ってくるあたり……

「――綺麗だな」
「えっ――?」
「月だよ。それとも何?香ちゃん
自分のこと言われてるって思った?」
「そっ、そんなわけないじゃない!
だいたいあんたがあたしにそんなこと言ったら
明日から月が西から出ちゃうわよ!」

それでも信じよう、その言葉が
命令でも懇願でもない、純粋な
「私はあなたを愛しています」だと。

「本当に綺麗だね、月」
「ああ、綺麗だな、月が」

http://sankei.jp.msn.com/science/news/130623/scn13062321310003-n1.htm