1995.7/nothing but love

「はぁっ、これで一安心よね」

店で流していたFMの合間のニュースに
子連れの常連客が安堵の溜め息を漏らした。

「そうねぇ……」
「だってウチの場合、他人事じゃないもの。
もしミックの身に何かあったとき
子供抱えた女が乗り込んで来てみなさいよ。
まして彼だったら一人や二人じゃ
きかなさそうなんだもの――もぉっ!」

いつもは冷静な母の豹変っぷりに
膝の上のもうすぐ1歳になるブロンドの男の子は
大きな目をさらにまん丸くしていた。

「かずえさん、落ち着いて……」
「そりゃ美樹さんだったらそんな心配
しなくて済むでしょうけど――」

どこかわたしの相槌が上の空なのを察して
今度はカウンターの向こうに矛先を向けてくる。
でも、こっちが素直に彼女の意見に頷けないのは
それが云わば他人事だからというわけではなかった
――お店にいるのはかずえさんだけではなかったからだ。

「ああ、いいのよおかまいなく」

その存在を忘れ去られていた相客の一人が
さらりと何気なく切り返した。

「要は、本妻の子と愛人の子の問題でしょ?
うちは“愛人の子”しかいないわけだから
差別なんて起こるわけないじゃない」

ニュースで流れてきたのはとある訴訟の最高裁判決
“愛人の子”が自分が父から受け継ぐ遺産が
“本妻の子”の半分でしかないことを
「法の下の平等にもとる」と訴えたものだった。

海外暮らしが長かったから、未だに日本では
婚外子差別というのが残っていることにまず驚いたものだった。
そもそも私だって、ファルコンとは
最初は籍を入れるつもりはなかったのだし。
でも、確かにかずえさんの立場になってみたら
――彼に限ってそんなことはあり得るはずもないのだけれど――
その財産の半分も渡す気になれないのが人情だった。
少なくともこのお店は、私とファルコンの二人三脚で
今まで築いてきたもの。それを何の苦労もしてないトンビの子供に
アブラゲ引っさらわれてなるもんですか!

「――いや、そうとも限らんぞ」

そう言ったのは、彼女の隣で姪っ子をあやしていた
その伯父さん――つまり、彼女の兄だった。

「もし何かあって、お前が撩のところを出ていったとする
もちろんひかりもつれてな。
お前くらいの美人だったら、またいい男が寄ってくるだろう
この子の父親になってくれるというやつも現れるかもしれない。
そして今度は晴れて正式に籍も入れられる。
そのうちそいつとの間にひかりの妹か弟も生まれるだろう。
――だが、幸福な日々がいつまでも続くことはない
お前が死んだとき、分けてあげられる財産のうち
ひかりの取り分はその下の子の半分になる」

――そうだ、生まれてきた子供の両親が
正式に結婚していたか否かで自動的に振り分けられてしまうのなら
そうなってしまうのだ、いささか理不尽であろうとも。
たとえ父親が誰であろうとも、彼女が自分の生んだ子を
――自分がお腹を痛めて産んだ子でなくても
分け隔てするはずがない。なのに、どちらも
香さんの実の子なのは揺るがしようのない事実なのに
その立場には歴然とした壁ができてしまう、
片方の父親が「存在しないはずの人間」であるばっかりに……。

「もし継父の方が先に死んだら、そのときは
取り分はどちらも一緒なんだぜ?
養子と実子の間には扱いの差が無いから
そっちはひかりとは血が繋がってないっていうのに――
もちろん、血の繋がりだけが総てじゃないんだが」

そう言われてしまっては、さっきまであんなに吠えていた
相客も口をつぐむしかなかった。
話はそんなに単純なものではないと。

香さんはお兄さんから娘を預かると
まだ何も判らない赤ん坊の顔をじっと眺めていた。
まだ生後半年にも満たないその子に何の咎があるのだろうか
そして彼女ともう一人、この場にいる赤ん坊と――
うちの鴻人との間にも、何の違いがあるのだろうか。
髪の色や目の色なんてことは何てことはない
それ以上にはっきりとした「罪の証』なんてものが
はたしてそこに存在しうるのだろうか?

「大丈夫よ、アニキ」

香さんは静かに、だがしっかりとそう言いきった。

「この子の父親は未来永劫、撩一人。
たとえあたしとあいつとの間に――あいつの身に
何があっても。それでいいでしょ?」
「――ああ、そうだな」

そうは言っても人の言葉ほど脆いものはない。
その言葉が違うことがないのを祈るとともに
もし違えてしまっても、そのときはこの子の上に
十字架が背負わされないようになることを願うしかなかった。

http://mainichi.jp/select/news/m20130904k0000e040250000c.html