これ以上ない悪夢

目が覚めたとき、そこが薄暗いことに心から感謝した。
豆電球とブラインドの間から洩れる遠くのネオン
いつもは真っ暗だと怖くて眠れないくせに
今は明るい方が怖かった、こんな真夜中
さっきまでの夢の続きのような気がして。

「どうしたんだ、ひどくうなされてたぞ」

目がぼんやりと暗がりに順応していく。
夜目はそれほど利く方じゃないけれど
それでもようやく撩だと網膜が像を結んだ。

「言いたくなかったら言わなくてもいいが……」

言った方が楽になる、というのは商売柄よく判っている
撩も、もちろんあたしも。
でも、口を開こうとすると寝起きの渇いた喉が
貼りついて空気が通っていかなかった。
すかさず撩が、サイドテーブルに置かれた
水の入ったボトルに手を伸ばす。
室温に戻った水は滑らかに喉を潤していく。
枕元のランプの光が、心配そうに覗き込む
彼の表情の陰影をより強調していた。

「――嫌な夢を見てたの。アニキが死ぬ夢……
今のアニキじゃなくて、もう少し若かった頃。
コートもボロボロで、足元には血だまりができてて
背中も……」

言葉に詰まる前に、撩はそのがっしりとした
剥き出しの胸板にあたしの顔を抱き寄せた。

「俺のせいだな」
「えっ?」
「胸を圧迫されると悪い夢を見るっていうだろ?」

きっといつもより体重をかけてたんだなと。
確かに撩はいつも、横向きのあたしと向かい合うようにして
その腕をまるで庇うように、毛布の上から
あたしの上半身に掛けて眠る。
でもそれは今夜もいつもと変わらなかった。

「だいたいさ、俺の腕の中で寝言でも
俺以外の男を呼ぶなよな。
槇ちゃんじゃなきゃ今頃パイソンで
頭を吹き飛ばしてるとこだったぜ」

そうやって悪夢も無理やりジョークにしてしまう
撩の優しさが痛いほど身に沁みた。
そして、こんなときでも撩に護られてしまう
自分の弱さがつくづく嫌になってしまった。
せめてそういうときぐらい、あたしが護る側に立ちたいのに。

「――撩は、悪夢とか見ないの?」
「悪夢、か……」

そういえばうなされている撩というのは
あまり目にしたことはなかった、
こうして毎夜ベッドを共にするようになってからも。

「だいたい、夢自体あんまり見ないからなぁ」
「うそぉ」

もともと、撩は眠りが浅い方だ。
眠りが浅い→レム睡眠→夢を見る、という連想は
あたしのおぼろげな生理学でも充分成り立つ。
専門的にはそんなに単純なことではないんだろうけど。

「忘れてるだけじゃないの?」
「そうかなぁ。悪い夢の方が案外覚えてるもんだぜ。
まぁ、昔の夢ならときどき見るけどなぁ
それも最近はそれほどじゃなくなったし」

そう言うと、ベッドサイドのラッキーストライクに手を伸ばし
一本咥えて火をつけると、すぅっと一息吸い込んだ。
薄明りの部屋に、静かに紫煙が漂う。

「悪夢ってたいていは、良からぬ『たられば』の類だろ
おまぁがさっきまで見てたみたいな、そして
覚めたら『夢でよかった』って胸を撫で下ろすような」

確かにそのとおりだ。さっきの夢だってアニキがいなくなる前
いなくなってからも何度も見ていたものだった。
もちろん現実でも安否は判らなかったものの
「判らない」ということに一筋の希望を見出していた。
でも、撩の見る『悪夢』は違う。良からぬ想像上の未来ではなく
すでに起きてしまった地獄のような過去。
それに比べれば、思い浮かぶ範囲でのどんな最悪の事態であっても
その過去を凌ぐものは無いのではないだろうか?

「ほら、ちゃんと寝ろよ。まだ早起きって時間じゃないんだからな」

と、撩は吸いさしの煙草を灰皿に押しつけると
まるで甲斐甲斐しい母親のように毛布をあたしの
剥き出しの肩の上まで覆い、その上から
小さな子供にするように二、三度そっと手のひらで叩いた。

「今度はいい夢見るんだぞ」

あんたもね、と心の中で呟いてから目を閉じた。