最悪のホワイトデー

「――ようやく明けたか」

外はまだ太陽こそ昇っていないものの
群青の空がしらじらと明るくなり始めていた。
傍らに眠るのは我が相棒、日付は3/15
といってもここはクーパーの運転席と助手席で
俺たちは暖房もつけられない車内でがっつり完全防備だ。
世のバカップルがホワイトデーにかこつけて
しっぽりと明かしたであろう夜を
こんな新宿から遠く離れた田舎道の
道端で明かさなければならなくなった訳は……

依頼自体は大したことはなかった。
さほど厄介でもない代わりに稼ぎにもならない
それでも1ヶ月はこれで食いつなげられる程度の。
だが、それも何とか片づけて家路につこうとしたときのこと
クーパーが突然、文字どおり二進も三進も行かなくなった。
ガソリンはまだ残っている。もうすでに夜遅く
懐中電灯の明かりを頼りにボンネットを開けてみれば
少なくとも応急処置で何とかならないことだけは判明した。
これはプロの手に任せるしかないのだが
レッカーを頼んでも案の定、明日にならなければ
来られないとのこと。その明日を待っての夜明かしだった。

「言っとくが、暖房はかけられねぇぞ」

エンジンを回さなければかけられない
そんなのただのガソリンの無駄遣いだ。

「判ってるわよ。だから、ほい」

と香は身を捩じらせて、助手席に座ったまま
後部座席に手を伸ばした。
引っ張ってきたのは常備してある毛布2枚
車に合わせたのか赤系のタータン柄だ。

「一応、クッキー程度なら食べ物もあるはず。
飲み物も置いてあったと思うけど
あったかいものだけは勘弁してね」
「……準備いいな」
「こんなの想定の範囲内じゃない、こんな仕事だと。
それに、1ヶ月前よりはマシよ」
「だ、な……」

1ヶ月前、ちょうどバレンタインデーだ。
そんなイベントもおかまいなしで冴羽商事は別の仕事だった。
それはそれであいつに言わせれば千客万来
商売繁盛で願ったり叶ったりなんだろうが。
だが、そこに折悪く大寒波来襲
俺たちはというと、吹雪の山に閉じ込められてしまったのだ。
幸いにもまともな避難小屋に駆け込むことができ
そこには燃料付きで薪ストーブなんてのもあったものだから
それで何とか暖をとることができたのだけど
もしそれが無かったら人肌で……という
王道展開になるところだった。ぞっとする、いろんな意味で。

そして、ホワイトデーは雪の心配こそ無いものの
同様に二人きりでカンヅメだ。
――これはもう大人しく頂いてしまえという
神の啓示なのだろうか。

すると、香がにゅっと手を
フロントパネルに伸ばした。

「ラジオもダメだぞ」
「えーっ」

カーステレオはエンジンを付けなくてもかけられるが
今度はバッテリーが上がりかねない。

「じゃあ、しりとり」
「しりとり、ねぇ」
「次、撩、『り』からだよ」
「えー、もう始まってるのかよ」
「しりとりの最初は『しりとり』に決まってるでしょ」

何だそりゃ、槇村家ルールか?

「だいたい、レッカー車で続ける気かよ」

電話では朝一で来るとは言っていたが
6時でもあと5時間は待たなければならない。
すると、香はふくれっ面でバッグから何か取り出し
それを耳に当てた。

「何でウォークマンなんか持ってるんだよ」
「いや、暇つぶしに。文庫本もあるけど
こんな真っ暗じゃ読めないでしょ」
「張り込み中に読んでるんじゃないだろうな」
「さすがに読まないわよ。普段用」

撩も聞く?と素直にイヤホンの片方を差し出してきた。

「カセットはそれしか入ってないから
たぶん5回は同じ曲聴くことになると思うけど」

それでも何も無いよりはマシだが、

「なぁ香」
「ん?」
「大人しく寝ろ」

つまりはこんなものを持ち出してきたというのは
夜中起きて待つ気満々なのだ。

「撩は?」
「俺は起きて待ってなきゃならないだろ」
「いやよ、あたしも起きる」

と、まるでクリスマスか大晦日の子供のようだ。
もういい、勝手にしろと言いかけたそのとき、

「わすれーなーいでーくれー」

同時に同じフレーズが口から飛び出してきたのは
なんてことはない、二人同じ曲を聞いているからだ。
それでも、二人そろって聞き慣れたサビを
思わず口ずさんでしまったことに、つい笑みが漏れる。

「――あたし史上最悪のバレンタインが
つい1ヶ月前のアレだったのは確定なんだけど」
「ああ」
「最悪のクリスマスは、ほら前
撩に『エロイカ』のクリスマスパーティーに
連れていかれたときがあったでしょ?
あれが一番最悪だったなぁ」

ああ、そんなことも昔あったっけ。
まだあいつと組んで間もないころ
エリカママらがさんざん香を連れて来いと言い
しまいには身の危険を感じるまでになったものだから
そうとは知らせずにあいつを引っ張ってきたのだ。

「まぁ今はもちろん免疫ついたけど
あの頃のまだ純粋だったあたしには
相当刺激が強すぎたんだからね!」
「はいはい、申し訳ございませんでした」
「撩の最悪のクリスマスは?」

最悪のクリスマスねぇ……
そもそも昔は日付を数えるということがなかった。
だからどうしようもなく血みどろの闘いの日が
偶然にも12月25日だったり2月14日だったり
3月14日だったり26日だったりしたかもしれない。
いや、あの頃のとりたてて普通の日だって
今のこの状況よりは数倍マシだった。

なら、今年のホワイトデーは
かなり良い方に入るんじゃないのか?

俺の答えを察した香は何も言わなかった。

静かな夜に流れるのは、イヤホンからの音楽の他には
遠くの幹線道路を通る車の微かな音だけ。
夜明けまでまだ4時間以上、眠るわけにはいかなかった。
依頼は片づいたといえ、こんなところで二人して眠り込んだら
物騒だという以上に、こんなせっかくのホワイトデーの夜を
白川夜船で過ごしてしまうのはもったいなさすぎたから。