恋の奴隷

依頼人との打ち合わせは済んだものの
話ばかりで出されたコーヒーは手つかずのままだった。
ぬるくなってしまうと美味しくなくなってしまうが
残すのも勿体ないと口をつけたところ
猫舌のあたしにはちょうどいいくらいになっていた。
とりあえずこれを飲んでさっさと帰ろうと思ったものの
この後予定が入っているわけでもないので
ちびちびと少しゆっくりしていくことにしたところ、

「そういえばちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」

後ろのボックス席の会話がふと耳に入ってきた。

「あたしの友達なんだけどね」

というときはたいてい話し手本人のことなのだが。

「その子には5年ぐらい一緒に仕事してる男友達がいるんだけど
プライベートでも仲良くて二人で食事に行ったりしてるんだって」
「へぇー。それで、付き合ってんの?」
「ううん、そういうことはしてない――って言ってた」

若いOLさんだろうか、まるでどこかで聞いたような
シチュエーションに、コーヒーを飲むペースもゆっくりになる。

「それでその彼女、彼のこと好きなんでしょ?」
「うん――」

「彼女の友達」が恥ずかしそうに濁し目の返事をした。

「でも、5年も一緒にいるのにそういうことはないんだ」

その友達は、彼女自身のことであるとは察していないように
遠慮も無く単刀直入に質問を投げかけた。

「そう――なんだって」
「その彼、付き合ってる人はいないの?」
「うーん、特定の誰かってのはいないみたいなんだけど
けっこう遊んでるっていうか
取っ替え引っ替えしてるって噂らしいよ」

噂の「彼」が、あたしの中ではっきりと形になった
もちろん、あいつの顔で。

「ふーん。そんなに女好きなのに
その彼からは女として見てもらえてないんだ」

よほど親しい仲なのだろう。またも友達の
痛いところをずばりと突いてきた。

「だったら脈はないね。諦めた方がいいと思うよ」
「うーん、やっぱりそう?」
「その方がいいわよ。これ以上そんな男に関わってたら
時間の無駄よ。そんなことしてるうちに
あっという間に嫁き遅れちゃうわ」
「―――」

相談主に言葉は無かった。けれどもその
痛くも有難い忠告を聞き入れたのだろうということは
息遣いというか気配で感じられた。

でもあたしはそうは思わなかった。
というか、世間はそう捉えるのかと
今さらながら意外な気がしたくらいだった。

誰かに愛を捧げようとするとき
人は心のどこかで愛されることを期待してしまう。
けれども、本当にそうなのだろうか?

もし空気を読まなくていいのであれば
あたしが彼女に一つ訊いてみたかった。
「それでも彼は、あなたの友達のことを
5年の間邪険にすることはなかった?」と。

確かにあたしも、あいつの手応えの無さに
やきもきした時期もあった。
でも諦めたというか、悟ったというか
――ううん、その「手応えの無さ」が
撩なりの答えなのだと判ったのだ。

あたしを疎ましく思うのなら
とっくの昔に追い出していたはずだ。
あいつのことだから、あたしの方から
出て行くように仕向けることもお手の物に違いない。
それでも、撩があたしを傍に置き続けているというのは
あたしがここにいていい――あたしにいてほしいということ。

そして毎日あたしは撩を叩き起こし
ご飯を作り、伝言板を見にいって
事あらばトラップなり何なりで全力で撩のサポートに回る。
それだけのことをやっておいて
あいつに振り向いてもらえないというのは
割に合わないことなのかもしれない。
でもあたしはしたいからそうしてるだけであって
撩にその見返りを求めてはいないし
撩のためにそれだけのことをしてあげられる
そのこと自体があたしにとっての見返りなのだから。

そもそも婚期だとか将来のことだとか
そんなこと全く考えてないから
こうして突っ走れるのかもしれない。
でも、後ろの席の彼女に伝えたかった
もし自分が本当にそうしたいと望んでいるなら
見返りなんて何も要らないというのであれば
思う存分彼のことを追っかけてもいいんじゃないかと。
そしてあたしはコーヒーの最後の一口を飲み干した。