need not to know

「お前、香の気持ちは知ってるんだろう」

タコ坊主に言葉尻を捉えられた。

「知ってるも何も、当然だろ
『こんなバカ男、馬に蹴られて死んじまえ』ってな」

「冴羽さん!」

「残り四感」が鋭い海坊主ならともかく
美樹ちゃんもお見通しだったとは。
もちろん「仕事柄」、他人より勘は鋭いだろうが
――いや、俺だって判ってるさ
この街のみんな、たとえ素人だって。
あいつほど態度に出やすいやつはいないのだから。

他の男――例えばタコ――と俺の前では
目に見えて表情が違う。
眼の輝きからしてやたらキラキラとしているのだ。
これがもし犬のように尻尾が生えていたなら
思いきりぶんぶんと左右に振り回しているはず。

――人は、好意を寄せられると
その相手に思わず好意を寄せてしまうもの、らしい。
ああまで、口に出さずとも残り全身で
「好き」と思いきり伝えてくれば
こっちだってついほだされてしまうもの。
だが、香の無言の好意に俺は応えてはいけないのだ。

以前にも同じようなことがあった。
相手はやはり、一つ屋根の下に暮らす相棒――である女。
俺だって彼女のことは嫌いじゃなかったさ。
パートナーとして息もぴったりだったし、何より気も合った。
今以上に刺々しかったあの頃の俺にとって
半径1メートル以内で邪魔にならない存在ってのは
相当相性のいい証拠だった。

だから、彼女が言わずもがなの好意を伝えてきたとき
一も二も無く俺はそれに乗った。
自称・万年ハタチがまだ20歳前だった頃の話だ。
だがそれで、俺はマリィーという女を手に入れるのと引き換えに
ブラッディー・マリィーという得難い相棒を
未来永劫失ってしまったのだ。

そもそも俺は彼女のことをよく知らなかった。
いや、知っているつもりだったさ
少なくともブラッディー・マリィーとしては。
だが、マリィーという一人の女の子のことは
これっぽっちも知らなかった。
これから少しずつ知っていけばよかったのかもしれない。
でも、そんなよく知らない女相手に
ヤルもんじゃないだろ、“もっこり”なんて。

それを今さら「無かったことにしようぜ」なんて
言えるわけもなく、そのまま俺は尻尾を巻いて
逃げ出してきたのだ、彼女の前から。
ようやく最近になってその本人の前で
昔のことを笑い話にできるようになったが
それまでにいったい何年かかったことやら。

だから、俺はもう「親しい女」とは
そういうことをしないことにした。
冴子との関係を香はずいぶん疑ってるようだが
もしあんなことがあったら
今さらじゃれ合ってなどいられないさ。

――あれは一回限りの不幸な事故で
香とはあんなことは無い、ということも
あるのかもしれない。
確かにあいつとの愛欲の日々ってやつも
健康な成年男性としては――おれが「健康」だとしたら
他の連中は皆、品行方正な修道士かもしれんが――
心惹かれるものがあるけれども、
それ以上に失いたくないのだ
今の生活を、そして香という相棒を。

こうして、あいつと一つ屋根の下に暮らして
同じ飯を食って一緒に仕事して
同じテレビ番組を見ては
他愛もない馬鹿話をして笑いあう、
そんな些細な日常を壊したくないのだ。

一歩を踏み出すこと、それはギャンブル
勝てばすべてを手に入れるが、負ければ失う。
それはあまりにもリスキーすぎる。
ならば最初から何も賭けなければいい。
そうすれば何かを新たに手に入れられない代わりに
今あるものを何も失わずに済む。
それほどまでに守りたいのだ
俺は、今のこのちっぽけな幸福を。

だから今日も俺はあいつの見え見えの好意を
知らないふりをする。知る必要もないのだから。

「いったい何のことだよ、美樹ちゃん」

そしてあいつは知らない、俺の決断を。
そもそも知る必要もないのだから。