晦日の月

情報交換、という名の逢瀬が今の自分にとって
日々の生活の中で一番待ち遠しいものだった。
それくらい、彼のいない毎日はつまらないものだったし
会って他愛もない話をするだけで心が浮き立った。

でも、少なくとも今日の彼はそうではないようだ。

「あら、どうしたの槇村? 具合が悪そうよ」
「いや、昨夜撩に付き合って深酒しちまったんでね」

まぁ、珍しい。だが決してアルコールに強いわけではない。
むしろ相手が酒豪であれ下戸であれ
自分のペースを崩すことがないのだ。

「昨日ばかりはあいつも見てて可哀そうだったからさ」

事の発端は、よくあるホステスからの営業コールだったそうだ。

「まぁ結構かかってきてたんだよ、あいつのとこに。
それも彼女の仕事のうちだったんだろうけど
俺も何度か代わりに取ったこともあった。
それでも先立つものが無かったわけだ。
でも、ようやく報酬が振り込まれて
で、撩のやつ、喜び勇んでのこのこ店に繰り出したんだよ」
「あなたも行ったの?」
「ああ、普段はあんまり同行はしないんだがね
電話の声の主が気になったものだから」

店にはしっかりと何日の何時に行くと言っておいたそうだ。
だが、ご指名の肚づもりだった当の電話の彼女は
その日そのとき、あろうことか他のお客をご相手中だった。

「しかも、マネージャーの不手際だろうと思うけど
俺たちの席から見えるところでね」
「それじゃ撩、ずいぶんとご立腹だったでしょ」
「立腹どころかへそを曲げて、子供みたいにいじけてたよ」

それで河岸を変えて自棄酒、に槇村も付き合わされたってわけね。
おかげでぱっと見でも二日酔いというのが判る。

「でも、その席のホステスやお運びのボーイが
みんな口々に言うんだよ、その不在の彼女が
いかに撩のことを大事にしてるかってね」

と言う彼の口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。

「でもそれが嘘だっていうの?」
「卵の四角に女郎の誠、あれば晦日に月が出るってね」
「ずいぶん古い文句ね」
「オヤジに昔よく末広亭につれてってもらったんだよ。
そこで色気づく前に廓話でも聞かされてみろ
少なくとも商売女の言うことは信じられなくなる」

と言うと彼はポケットから煙草を取り出して
一本咥えると、それに火をつけて一息吸い込んだ。

「せいぜい半分は嘘と見たね。
どうせマニュアルがあるに違いないさ、あの手の商売は
男をいい気にさせて、高い酒注文させて
それが儲けになるんだからな。
注文させたホステスには歩合が付くんだろうし」
「いい気にさせて、ねぇ」
「ああ、だから思ってもいないお世辞でも言うさ」
「でも、言われた側が満足できるならいいじゃない。
少なくとも、悪い気はしないんじゃないの?」

いい気になりに通う場所――それは私にとって
例えば行きつけのブティックかもしれない。
そこの店員とは顔見知りで、服の好みもよく知る間柄だ。
店で声をかけられるのが苦手という人もいるが
私はそこでの会話もまた、ショッピングの楽しみの一つだ。
そして「似合う」だのと言われてしまえば
いい気になって、ついつい買ってしまったりもする。
それも営業行為のうちなのだろうけれど。

だが槇村は吐き捨てるように呟いた。

「何が哀しくて追従を金で買わなきゃならないんだ」

そして、乱暴に煙草をベンチの脇の灰皿に押しつける。

「どうせ腹の底ではそんなことみじんも思っちゃいない
それどころか軽蔑してるさ。言うなれば
札束で頬をひっぱたいていわせた言葉だ。
それに舞い上がったら、ただの間抜けじゃないか」

次の一本を取り出そうとするが、あいにく包みは空だった。
それを手のひらの中でぐしゃりと潰す。

「ああ、確かに悪い気はしないさ。
でも帰りにふと淋しくなるんだよ
金のために言った思ってもない空言にいい気になるだなんて
どれだけ自分は人の称賛に飢えてるんだって」
「――そんなことないわよ、いくら相手が水商売だって
お世辞なんかじゃなくて本当のことかもしれないじゃない」
「おいおい、冴子。君までやめてくれよ」
「槇村、あなたはいつも冷静で思慮深くて博識で――」
「でも大学も出ていないんだ、君と違ってね」

ふっと、彼の眼が淋しそうに曇る。
昔からそうだった、彼がまだ刑事だった頃から
それはただの謙遜だと思っていた。
でも違う、それは――

「真に受けていいやつもいるのかもしれない
例えば――撩とか。あいつは確かに凄い男だよ
お世辞抜きでね。でも俺は違う」

確かに冴羽撩という男の実力、魅力は私も認める
一瞬、目の前の彼と天秤にかけてしまったこともあるくらいだ。
でも、槇村には槇村の良さが、能力がある
だから私は今も彼の傍にいるのに――

「――妹さんは?」
「えっ?」
「香さん――だったわね、褒めてくれないの?」
「そりゃあ……」

沈んでいた表情が、一瞬で兄バカの照れたそれになる。

「まぁ、小さい頃から何かと
『自慢のアニキ』だったみたいだからな
いい年をして未だにそうだってのが
子供じみてて心配なくらいだよ
もう高校生だっていうのに」
「それは素直に受け取れるのね」
「冴子、それだって身内の欲目さ。
今に大きくなって、もっと広い世界を知れば
俺なんて男の小ささを思い知るさ」

能ある高が爪を隠しているのではない
爪なんて持っていないと思っているのだ、この鷹は
自分なんてただの鳶だと。
それが、彼にとって世を渡っていく術だったのだろう。

「だから冴子、褒めても何も出ないぞ。
飲み屋の女だったらボトルの一つも入れてやったんだがな」
「もぉ、槇村っ!」

じゃあ、どうやったら彼に信じてもらえるだろうか
自分は本当は鷹なのだと。
私には、それは無理なのかもしれないけれど。