1994.3/Caesarean section

帝王切開、の語源はかのローマのカエサルが
それによって生まれたから、というのは俗説だそうだ。
じゃあ本当のところはどうなんだと言われると
話せば長くなるのだが、その俗説が
ラテン語から英語やドイツ語、さらには日本語と訳され
名は体を表さない名前で延々と呼ばれ続けているのも
厄介な話ではあるが、それはまぁともかく。

「――それで、やっぱり切って出さなきゃいけないって」

そうカウンターの向こうで、スイカみたいに
大きな腹を抱えながら美樹ちゃんが不安そうにこぼした。

「まぁ、海坊主さんの子供だからねぇ……」

隣の香もつられて眉を八の字にしかめる。

「でもファルコンは『自分はそこまで
大きくなかった』って言ってたんだけど」

これでまだ予定日から1ヶ月はあるというのだから
その成長っぷりがうかがえるというもの。

「でも、美樹さんはその……」

と、香が適切な言葉を探して言いあぐねていると

「下から出したいの?」

と、何とも明け透けな問いが投げかけられた。
Cat'sには俺たち以外にも客がいた
生後3ヶ月の乳飲み子を抱え――ているようには見えない
母親業の先輩、冴子だった。
つい1ヶ月前に職場復帰を果たしたばかりである。

「まぁ、しょうがないかなって。
傷が一つ増えても今さらどうってことないし」

と言える妊婦は美樹ぐらいのものだろう。

「こだわって子供かあたしか、それとも両方
危険にさらすよりは、この際は
安全第一の方がいいと思って」
「でも、帝王切開って言ったって
手術には違いないのよ。
切れば切るだけリスクはあるし
うまくいっても、それだけ復帰は遅れるもの」

そういえば結婚式のときも結構かかったしなぁと
美樹が呟くが、あれだって実は世間一般からすれば
「奇跡の回復」というべき早さだったことは言い添えておく。

「わたしなんてマル高でなおかつ
逆子だったから絶対に切れって」
「えっ、秀弥くん逆子だったの?」

と香は膝の上に抱えている赤ん坊と
その生みの母親の顔を見比べた。

「そっ」

道理で……ようやく首が座ってきたくらいなのに
どこかひねくれてる赤ん坊だと思ったら
腹の中にいたときからそうだったのか、やっぱり。

「最初にかかった病院でそう言われたから
その後、どうしても自然分娩で産ませてくれるとこ
さんざん探したの」
「たまにゃ切り刻まれる側に回ってみりゃいいんだ」

との俺の軽口にも即座に反応した。

「そんなことしたら職場復帰がそれだけ遅れるでしょ」

とまぁ、大したワーカホリックだ。
「母親の代わりはいても、『警視庁の女豹』の代わりはいない」
って普通は逆だろうが。今だってそのスカートのスリットの奥に
ナイフを忍ばせているに違いない。
そのおかげで、こうして香が実の母親代わりに
面倒を見させられているのだ。もっとも
実の子供など夢のまた夢のあいつにとって
こうして甥っ子の世話ができるだけでも
幸福なのかもしれないが。

「でも良い先生が見つかって本当に良かったわ。
逆子を直すのにいろいろ手を打ってくれたし
もし直らなくても下から出せるって言ってくれたから」
「あぁ、でもあたしもかかってるの
冴子さんから教わったところなのよ」
「じゃあ先生がそう言うんだったら仕方ないかもね」

と、すっかり母親同士で盛り上がって
俺たちはというと蚊帳の外だ。
まぁ、俺は別にその輪の中に入りたいとも思わないが
隣の席の相棒がどこか所在なさげに見えた。
すると、

「香さんもそのときは紹介してあげるから」

と女豹がウィンクを投げかける。

「あっ、あたしは別に――///」

まだまだ俺たちのガキなんてことは
これっぽっちも考えていなかった頃のこと。
当然ながら、その冴子のかかりつけが
俺たちも少なからず知っている相手だとは
まだ知る由も無かった。

帝王切開の世界的「まん延」に警鐘、WHO 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News