1995.5/ファースト・コンタクト

これは純粋に自分のエゴだったのかもしれない。
香に子供が生まれるのに合わせて育児休暇を取った
当然、自分の子でないにもかかわらず。
自分の息子の世話も妹に任せきりだったのだ。
いくら彼女にとって可愛い甥であっても
初めての我が子だ、しばらくは水入らずにさせてやりたい
というのも、兄心のうちだろう。

だが、秀弥にとってはどうだ。
いつも親同然に世話を焼き、愛情を注いでくれた
叔母さんからはしばらく引き離されて、
ただ血が繋がっているというだけで
碌に面倒も見てくれない「父親」とやらと
当分の間過ごさなければならないのだ。
家族の絆というのは血縁ではなく愛なのだということは
自分自身が一番よく、身に沁みて判っているつもりだ。
もちろん我が子を愛していないわけではないが
自分がしていることは、息子本人の気持ちを無視した
親としての勝手なアリバイ作りに過ぎないのではないかとすら思う。

しかも、1歳半になろうとする息子は
早くも自我の芽生えというのを見せ始め、
要は親の言うことを聞かなくなりつつあった。
なんでも「イヤ」と言い、服を着せたり物を食べさせたり
何かをしてやろうとすれば、それを蹴って自分でやろうとし
結果、うまくいかなければ八つ当たりをする始末。
さらにこの環境の変化も加わってか
もともと表情の乏しかった彼は
ますます不満げな顔しか見せなくなった。
――今よりもっと従順で、可愛げのある頃の秀弥の姿を
見られたのは香と撩だけなのかと思うと
親としての自分に情けなさが募るばかりだった。

「秀弥、出かけるぞ」
「どこ」

父親が支度を整えているのを判っているだろうに
彼は背中を向けて黙々と積み木を並べ続けていた。

「香おばちゃんのところだよ」

と言われると「まぁ、行ってやるのもまんざらではないが」
と言わんばかりの、1歳児に似合わぬ偉そうな態度をとる。
靴も自分で履こうとするが、マジックテープは
うまく噛みあってくれず、それでも直すとへそを曲げるので
そのままベビーカーに乗せることにした。

秀弥が従妹に逢うのはこれが初めてだった。
俺たちはまだ入院しているときに顔を見ていたが
小さい彼をそこに連れてくるのはまだはばかられた。
これからまた香の世話になったときには
兄妹同然に過ごすことになるだろう従妹だ。
といっても今の彼にとっては、大好きな叔母を
自分から奪って独り占めしている、にっくき「恋敵」
まぁ、自分自身も彼のその感情を理解できないわけではなかった。

「ごめんねアニキ、部屋散らかってて」

あれから1ヶ月経ち、妹もようやく
元の生活に戻りつつあるようだ。

「いや、仕方ないだろ。赤ん坊がいるんだから」
「そうはいっても、まだほとんど寝てるだけだもの
これから這い這いするようになってからの方が
もっと大変なんだから」

と、初産のくせにいっぱしの口を叩く。
それもそのはず、すでに秀弥で
一通りの経験はしてきているのだから。

「ベビーベッドじゃないんだな」

今日の主役はソファの上に置かれた籠の中
静かに目を閉じていた。どうやらお休み中らしい。
ベランダへ続く窓は開け放たれ、5月の風が
レースのカーテンを静かに揺らしていた。

「うん、そっちは上の寝室に置いてあるの。
昼間はリビングで過ごす方が多いから」

そう言いながら香はコーヒーをテーブルの上に置いた。
秀弥にはジュースを、使い慣れた飲み口付きのカップで。

「ああ、そういえばクーファンありがとうね。
おかげさまでひかりにも使わせてもらって」

そう、今彼女が収まっているのは
かつて秀弥がここで過ごすときのために
用意したものだった。
当の本人にその記憶はあるのかないのか
ただ、何か思い入れのあるかのように
白いフリルで彩られた籠をじいっと見つめていた。
その中に彼はいたのだ、実の両親と叔母夫婦と
4人分の愛情を独り占めして。
だがその座を占めるのは今や新参の従妹だ
――その妬みを、行動に移さなければいいのだが……
やおらクーファンに近づき、その縁に手をかけて
従妹の寝顔を覗きこむ秀弥の眼の鈍い光に
父親として伯父として、不安を覚えずにはいられなかった。

――それは一瞬の出来事だった。
風の悪戯か、リビングのドアが音を立てて閉まった。
その音に驚いたひかりがびくりと
ちいさな腕を虚空に突き上げた。
モロー反射、生後間もない赤ん坊が示す原始反射の一つ
すぐそばにあるものにしがみつこうとする本能だ。
そして――秀弥がその手をしっかと握りしめた。
まるであわや墜落という瀬戸際から
間一髪で助け上げたように。

「――それでアニキ、育休はいつまで取るの?」
「まぁ、3ヶ月ってとこだが
あんまり無理するんじゃないぞ、
大変だったら保育園に預けても――」
「あら、それだって一日中は見てくれないじゃない」

それは香の言うとおりだ。両親ともども多忙の身
結局はまた香たちが親代わりになるのだろう
そして今度はひかりを「妹代わり」にして。
一人っ子同士、お互い助け合ってくれれば
将来いざというときに頼りになるだろう。
そうでなくても、ひかりはきっとこれから
災厄の絶えない人生を送ることになるに違いない、
親が親だけに。そのとき、撩や香だけでなく
秀弥もまた「兄」として、あの子を守る盾となってくれれば――
これから少しずつ、そう教え込んでいこうと思っていたが
もしかしたらその必要もないのかもしれない、
そのことをすでに彼が知っているのだとしたら。

「とぉ」

アパートの玄関ドアを閉めて階段にさしかかったとき
上目づかいで秀弥がそう呼んだ。
ちなみに「とぉ」とは「お父さん」の略で
冴子のことは「かぁ」と呼んでいた。

「ん、どうした」
「だっこ」

行くときは6階までの階段を自力で上がろうとして
途中で嫌になって座り込んでしまったのだ。
それに懲りたのか――いや、そうはいっても
小さいながらに誰に似たのかプライドの高い彼が
そうやすやすと助けを借りようとはしないはずだ。
その秀弥が素直にすがってきてくれたことに
父親としての自尊心をくすぐられる思いだった。
それに「とぉ」と呼んでくれたのもいつ以来か。

あいにく、ベビーカーで来たから今日は
抱っこ紐は持ってきてはいなかった。
でもせめて、素手で抱き上げられるだけはそうしてやりたかった。
秀弥にはこれから重い使命が待ち受けているのだ
今は、赤ん坊らしく甘えさせてやろう。
それが、父親としての自分の使命なのだから。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150625/k10010127191000.html