1995.7.7/Milky Way

「たっだいまぁ、と」

夕刻、日頃の「お出かけ」から帰ってきても
まだこの時期は部屋の電灯を点けるまでもない。
だが、暮れなずむリビングで香がぼぉっとした表情で
ソファに座っていたら一瞬ぎょっとするはずだ。

「ど、どぉしたんだよ、おまぁ」
「あ、りょう、おかえり」

肌蹴た胸には――それについては後述の理由で
心配することはない――乳房にすがりつく生後3ヶ月の娘。
たとえ母親が心ここにあらずでも
授乳はできるのだから大したものだ。

「確か今日、ひかりの予防注射だったよな」
「うん、そうだけど」
「そこでなんか言われたか? また『小さい』だとか」

ずかずかと部屋を横切り、香のすぐ横のクッションを除けると
空いたその席についてあいつの顔を覗き込んだ。

「ううん、あの院長先生だもの
それについては問題ないって言われた。
でも……」

そう言い淀むと、慎重に言葉を探る。
そして、

「あのね、病院で季実子ちゃんに逢ったの」

と、時間軸の一番最初から始められた時点で
香の話が長くなることは覚悟できた。

ひかりの予防接種でかつての依頼人の
武田季実子と逢ったのはおかしなことではなかった。
香のかかりつけの産婦人科で、なおかつ
そこで生まれた子供の健診までやってくれるという
奇特な病院が、彼女の実家なのだから。
当時はまだ高校生だった季実子は、父方の祖母の援助も受けて
今や武田産婦人科の後を継ぐいっぱしの医学生になっていた。

「それで、注射でずいぶん、他の人も待たされてて
っていうのも、たまたまそのとき急なお産があって
それが結構長びいてて……」

と、香の話も長びきそうだから
俺が掻い摘んで語り直すと、そのとき
見学兼助手に入っていたであろう季実子が
分娩室から飛び出してきて、廊下のベンチに
香の姿を認めるなり、こう叫んだのだという。

「香さん、HTLV−1は陰性だったよね!?」

HTLV−1――ウイルス性白血病の原因であるそれは
母乳を通じても感染する。妊婦健診に含まれてはいないが
体液から感染するものであるから、俺と一緒に
以前検査したことがあった。

「うん、そうだけど……」
「じゃあお願い!」

と腕を掴まれ強引に連れてこられたのは
分娩室のすぐ隣の部屋。そこで香が所在無く
きょろきょろとしていると(想像は容易につくw)
季実子が隣から連れてきたのは
生まれたてほやほやの赤ん坊だった。

「お願い、香さんっ!
この子におっぱい分けてほしいの!!」
「えっ、ちょっと、そんなこと言われても……
それに第一、この子のお母さんは……?」

その部屋と分娩室の間にはドアは無く
ちょっと覗き込めば分娩台が見えるようになっていた。
その周囲には後片づけに立ち回る院長と助産師、看護師たち
その中心にいるのがその子の母親、のはずだったが

「お産が長びいちゃってちょっと意識混濁状態
っていっても大きい病院に搬送するほどでもないんだけどね。
でも、そんな感じだから授乳もできなくて
もともと出産前から乳の出が不安そうだったし」
「でも、新生児用のミルクだってあるでしょ?」
「それがこの子、全く哺乳瓶を受け付けてくれないの。
うちの看護婦さんも、ベテランの助産婦さんも
何度トライしてもダメで匙投げられちゃって……」

それで香に泣きついてきたのだという。
こいつの乳の出の良さといったら、まるでホルスタイン並みだと
いうことは、ここの跡取り娘の季実子の耳にも入っていたようだ。

一方の、この世に生まれ落ちて未だ食糧にありつけてない
赤ん坊はというと、香が言うには空腹そうというより
どこかナーバスといった感じだったという。
そりゃそうだ、さんざん難産の挙句に
居心地のいいママの腹の中から
まったく環境の違うところへ捻りだされてしまったのだ。
それで落ち着けというのも無理な話だ。

母乳というのは赤ん坊にとって糧であると同時に
言うなれば嗜好品のようなもの。
もう食べ物を受けつけるようになっても
安心感欲しさに乳房にすがりつくともいう。

香は手早く消毒を済ますと、慣れた手つきで
その見ず知らずの赤ん坊の口に乳房を含ませた。
まだ吸い方も判らない、文字どおりの新生児でも
こいつの胸なら勝手に湧き出る泉のようなものだ。
次第にその子も「呑み込み」を掴んできたらしく
微力ながら乳首に吸いついてくるようになったという。

「――そりゃ結構な人助けじゃないか」
「でもね……」

香の話には続きがあった。
再び廊下に戻ると、ベンチには同じように
診察の順番待ちをする母親たちがいた。
彼女たちは香と季実子の短いやりとりから
事の次第を感づいていたようで、ひそひそと
――これが女の気に入らないところだが――
口々に言葉を交わしていた。

――いくら母乳が出ないからって
 余所のママから貰ったりできる?
――ううん、貰うのもあげるのも
 私にはムリ。

「まぁ、判らんでもないが」

確かに、粉ミルクの無い昔ならともかく
今の感覚なら衛生的にもアウトといったところだろう。

「母乳はもともと血液だっていうしな」
「あら、血だったら献血はどうなのよ」

と、香には珍しく感情論の痛いところを突いてくる。
アドレナリンは血流とともに乳の出も良くする効果もあるのか

「っおい!」

もう充分に小さな腹を満たしたひかりが
乳首から口を離すと、行き場をなくした乳が
子供の顔に引っかかった。

「勢いよすぎ」
「ごめんごめん」

と、ティッシュで拭う。

「まぁ、世が世なら乳母として
一稼ぎできるのになぁとも思ったんだけど」
「それで権力者の家に入り込んで」
「ゆくゆくは『お局様』【笑】」

などとくだらないことで笑い合うのは相変わらず。
だが、香がそんな世の趨勢に反発を覚えるのは
当然のことに思えた。
俺も香も、他人の愛情という“乳”に
育まれた子供だったのだから。

「でもあのお母さんには悪いことしちゃったな」
「どうして」
「だって、やっぱり初めてのお乳だもの
自分であげたかったはずでしょ」

出産後間もない母体から出る乳――初乳には
特に免疫物質が多く含まれ、それによって
生まれたばかりの子供を守るという。

「まぁ、出ないもんはしかたねぇし
それに初乳ったって1週間は出るんだろ」
「それよりは気持ちの問題よ
だって初めてってのはなんだって特別でしょ?」

ファーストキス然り、その先の“初めて”も然り……
というのは、さっきとは矛盾しているかもしれないが
それもまた香らしいといえばそうだろう。

「――ああ、そういや今日は七夕だったな」

そろそろ薄暗くなってきた部屋の
カレンダーにふと目が行った。
織姫と彦星を隔てる天の川
それは西洋では、女神ヘラの乳房から
溢れ出た乳なのだという。

かの英雄ヘラクレスがまだ赤ん坊だった頃
その父親ゼウスが我が子に不死の力を贈ろうと
本妻の乳を眠っている間に勝手に与えようとした。
だが彼女にとってその赤ん坊は
浮気者の夫がにっくき愛人に生ませた子
目を覚ましたヘラはヘラクレスを胸から引き離すが
さすがは神の子、未来の英雄
その吸う力は早くもすさまじく
勢いよく溢れ出た乳は天へとほとばしったという。
たとえ口にすることができたのはほんの僅かであったとしても
その神通力たるや、彼がその後成し遂げた偉業が
皮肉にも証明しているといえるだろう。

俺の女神様の乳には、おそらくそんな力は含まれていない。
だが、誰にでも分け隔てなく愛情を注ぐ
そんな優しさはせめて、その赤ん坊にも
伝わってほしいと、心から願った。

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0615.html