1993.8/Can't wait for the Summer

カレンダーじゃ真夏のはずが、涼しい日が続き
雨降りも珍しくない今日この頃。
おかげで未だにホットコーヒーも
店の売り上げの中で結構な割合を占めている。
今日は幸いにも雨こそ降っていないものの
曇り空は相変わらずで、少々肌寒いくらいだ。
これじゃサイフォンの出番も多そうね、と
洗って乾かしたものの水気を拭いていたら
かららん、とどこか湿り気を帯びたドアベルの音が響いた。

「美樹さん、こんにちは」
「あら唯香ちゃん、いらっしゃい」

数年前に華々しくデビューを飾った天才女子高生作家も
今は「女子大生作家」だ。
だが、そんな煌びやかな肩書に似合わず
目の前の彼女は外の天気同様、浮かない表情だった。

「カフェオレお願いします」
「ホット、それともアイス?」

この時期それを訊かなきゃならないというのも
今年の夏の普通でなさを表しているといえるのだけど

「うーん、ホットで」

と言うと唯香ちゃんは、冷房もかけていないのに
羽織っていたカーディガンの前合わせを交差させた。

「ほんと、散々な天気よねぇ」

天気の話題は当たり障りのない会話の糸口の一つだけど

「まったく、たまったもんじゃないですよ!」

と、勢いよく噛みついてきた。

「梅雨来たりなば夏遠からじ、
明けない梅雨は無いっていうじゃないですか」

うーん、言葉そのものは違うと思うけど
それが象徴として意味しているものはそうなのかもしれない。

「でも今年、まだ梅雨が明けてないんですよね」

そうなのだ、関東、というか本州は
正式な梅雨明け宣言をせずに
8月になってしまったのだ、今年は。

「せっかくの女子大生一年目の夏休みだっていうのに
こんなんじゃ夏らしいこともできないじゃないですか」
「夏らしいことって?」

カフェオレを目の前に差し出すと、唯香ちゃんは
角砂糖をたっぷり4つ、その中に落として掻き混ぜた。

「例えば……海とか」
「海、ねぇ」

ビーチで水着でこんがり小麦色、そこにナンパ青年が現れたりして
なんてのはいかにも若い娘らしい夏休みの過ごし方だろう。
でも、自分でそう言いつつどこか小さくなっている唯香ちゃんと
そんな夏が結びつかなかった。

「そういう友達、いるんだ」
「いますよ、これでも」
「ふーん、唯香ちゃんもそういうこと興味あるのねぇ」
「興味っていうか……せっかく大学生やってるんだから
そういう経験を通してリアルな若者の姿を取材した方が
小説にも真実味が出るかなぁって……

確かに、いくら渚の狼青年が束になっても
彼女にとっては、自分が頭の中に思い描いたヒーローの方が
格好いいに決まってるんだもの。

そのとき、BGMの静かなバラードが終わり
キラキラとしたシンセの音をバックに
夏を思わせる力強い歌声が響いた。

「あ、TUBE」
「そ。ファルコンがいるときはクラシックだけど
せめて少しでも夏っぽくしたくって、ね」
「ああ、そういえば冴羽さんたちは?」

あの二人は、大きな仕事とかで
しばらく東京を離れていたのだけど、

「冴羽商事も夏休みで、しばらく海ですって。
確か、房総の方だとか」

南房総だったらここよりも暖かいから
少しは夏らしい夏を過ごせるだろう
もう海にはクラゲも出始める頃だけど。

「夏を待ちきれなくて、か……
待ってても夏なんか来なかったじゃない」

そう、暖をとるように両手でカップを抱えながら
かすみちゃんがくさした。

「だから『待ちきれなくて』なのよ。
自分から迎えに行かないと
夏は来ないんじゃないのかしら」

少なくとも、今年の夏は
冴羽さんと香さんのように。

「そうですよね、あたしも迎えに行こっと!」

と、カフェオレを飲み干すと
唯香ちゃんは勢いよく席を立った。
一見大人しそうだけど、向う見ずな鉄砲玉なのは
姉二人と変わらないので
いったいどこにどう夏を迎えに行くのか
少々心配ではあるのだけど。

お代の小銭を置いて店を飛び出していった
彼女と入れ替わるように
エンジン音が店の裏から聞こえてきた。
聞き慣れたランドクルーザー。

「あっ、ファルコンだわ」

急いでCDプレーヤーを止めた。

浪漫の夏