素敵な片想い

仕事を終えて自宅兼事務所へ戻ると

「よぉ」

ドアの前にしゃがみ込んでいたのは
愛しの隣人だった。

「どうしたのよいったい。何か用?
依頼だったら、ちゃんと正規料金取るわよ」
「んな大げさなことじゃねぇよ
ただ鍵忘れて出てっちゃったんだよね。
それで帰ってきたら香のやつ、まだ戻ってなくてさ」

というわけで、早い話が締め出されてしまったらしい。

「だから、あいつが戻ってくるまで、な?」

と手まで合せられてしまったら
私じゃなくても入れてあげるしかないだろう。

「いいわ。散らかってるのが嫌でなければ」

そう言って鍵を開けて撩を招き入れると
畳んだ傘をドアに立てかけた。
外はすっかり本降りになっていた――
思い出して彼の肩を見遣ると
降られたときはまだ小雨だったのだろうが
濡れた跡がまだ残っていた。

「――待って、今タオル持ってくる」
「いいよこれくらい。それより
あったかいコーヒーがありゃ充分さ」

そう言われてしまえば、コーヒーメーカーをセットするしかない
――彼相手にインスタントというのは失礼極まりない。
ついでに、到来物のビスケットも添えて。

「香さんは傘持ってるの?」
「いいや、持ってないだろうな
この時間だと、上がるまでCat'sで雨宿りってとこか」

長くなりそうだな、と窓の外を見ながら呟く横顔に
今もなお私の心は惹きつけられずにはいられなかった。

昔から、本気で好きになったら
遮二無二かまわず一直線だった。
少しは駆け引きというのを覚えろという
有難いアドバイスもそっちのけで
押して押して押しまくっていた。
実際、この猛アプローチで陥した男も少なくなかった
(だからこそ敢えて余計な戦術を
身につけようとは思わなかった)
でも、どんなに押しても押しても巨大な壁のように
びくとも動じなかった男、それが――冴羽撩だった。

何をやっても、どう足掻いても振り向いてはくれなかった
――いや、ちらりと振り返るだけ
でも次の瞬間にはそっぽを向いてしまう。
しまいには、撩を好きでいること自体が苦しくなってしまった。
どんなに好きでも、どんなに求めても
彼の心を手に入れることができないのだから――

「でも、もしかしたら香さん
確信犯かもしれないわよ?」

そう差し出したコーヒーにほんの僅か毒を振りかける。

「んっ?」
「撩、またツケ増やしてるんですって?
おかげで香さん、こないだもCat'sでおかんむりだったわ」
「んなこと言われたってなぁ……」

と撩は琥珀色の毒杯に口を付ける。

「判ってないんだよなぁ香ちゃんは
夜遊びなんて俺にとっちゃ数少ない趣味みたいなもんなんだよ。
まぁ、そう言われたら我慢の一つもするけど
だからって嫌いになれるわけがないんだから。
お前だってそうだろ? いくらダイエットに励んで
甘いもんは控えようって思っても
ケーキの魅力そのものは同じだろ?」

そう言いながら何の具材も入っていない
ビスケットをわざわざより分け、口に放り込む。
――いくら苦しくても、だからといってわたしは
撩を嫌いにはなれなかった。

一方の、わたしの恋敵はというと
同じように決して振り向いてくれない大きな背中に向かって
これでもかと愛情を投げつけていた。
でも、そのいつ報われるともしれない
望みの無い片想いでも、彼女はいつしか嬉々として
晴れ晴れと愛情を投げつけるようになっていた。
それは決して、振り向いてほしくて投げるんじゃない
ただただ自分がそうしたいから、そうせずには
いられないから投げつけるのだというように。

そして撩は、彼女の愛に応えた。

取り残されたわたしは、撩を諦めざるを得なかった。
だからといって、彼を好きだという気持ちまで
諦めることはできなかった。

今もなお、私は撩の広い背中に
思いきり愛情を投げつけ続けている。
でも――あの頃と違うのは
それがちっとも苦しいくないのだ。
むしろ楽しくてたまらなくさえある。
――ああ、香さんはきっとこんな気持ちで
ずっと撩を愛していたんだろうな。
だからずっと愛し続けていられたんだろうな。

「――あ……」

他愛も無い話に花を咲かせているうちに
雨は小降りになっていた。その下を赤毛のショートカットが
小走りに隣のビルへと駆け込んでいった。

「じゃ、麗香またな」

と、飲みかけのコーヒーもそのままに
撩はソファから腰を浮かせた。
ポーズだけでもすまなさそうな表情を浮かべて。
本当は四六時中、そんな馬鹿話を続けていたい。
でも今のわたしにとって、こんな思いがけない
僅かな時間を共に過ごせることこそが幸福なのだ。
振り向いてほしいと願うから
振り向いてくれないことが切なくなる
ならばそんなことは願わずに
ただただ愛を投げつければいい
一瞬でも振り返ってくれれば
それだけで嬉しくなれるのだから。

窓の下のサイレント映画は弁士不在じゃよく判らないけれど
少なくとも今回は単なる不運なすれ違いだったらしい。
残念、と心の片隅で想いながら
彼の残したカップを空にした。