1994.11/Mommy Track

そろそろ、通りによっては吹く風に混じって
金木犀の薫りが漂ってくる季節だが
日が落ちると、それでも人通りの多い歌舞伎町ですら
人恋しいほどに寒さの募る今日この頃。
ここ最近は荒い風に当てないようにしてきた香を
わざわざ寒空の下に引っ張ってきたかというと、

「近頃凹んでるみたいだから
ちょっくら元気づけてやろうと思ってね」

なんて言葉が臆面もなく出せるようになったのは
進歩というべきか、またはそれも今更ながらか。

あいつが落ち込んでるのは、“現場仕事”への
出入りができなくなってしまったからだ。
そして、その理由というのが……まぁ
一言でいえば「コレがコレなもんで」である。
いくら始末屋稼業が労働基準法の監督外とはいえ
さすがに妊婦をドンパチへ引きずり出すわけにはいかない。

もちろん子供が欲しいと蔭ながらずっと望んでいたのは
他ならぬ香自身で、その望みは俺の望みでもあったから
こうして「共同制作者」に名を連ねたわけでもあって
でも一方で、子供が出来たことで
パートナーとしての仕事もままならなくなる現実に
いちいち滅入るのは贅沢な悩みかもしれないが
人間というのは案外そんなものだ。
近頃じゃ経験も積んで、すっかり腕を上げてきて
俺としても香の心配をせずに
敵さんのお相手をできるほどになったというのだから。

「元気づけるって、あたしアルコールは厳禁なんだからね」

と、まださほど目立たぬ腹をさする。
確か5ヶ月といっていたか
とすればだいたい折り返し地点ってとこか。
まぁ、場所が場所だけにあいつの心配も当然だろう
足を踏み入れたのが一本裏に入った
飲み屋だらけの雑居ビルならなおさら。
そこの一見うらぶれたスナックのドアを開けると、

「よぉ撩ちゃん、お先にやってるよ!」
と一斉に視線を向けてきたのは、この新宿の情報屋の面々
といっても全員が全員そうというわけではないが。
そいつらが狭い店の中を貸し切り状態だ。
だが、主役がまだ来ないっていうのに
すっかり和気藹々と盛り上がっている有様は
ただ単に集まって旨い酒を飲みたかっただけじゃないか
とさえ思うのだが。

「さ、香ちゃんもこっちこっち」

そう「お誕生日席」に手招きするのは
あいつともすっかり顔馴染みの轍っつあん。

「本当はもっと早くにお祝いしようと思ったんだけど
ごめんな、すっかり遅くなっちまって」
「あ、いーのいーの、そんなわざわざ……」

と、嬉しいような困ったような顔で
薦められた席を懸命に断ろうとする。
そこから何とか抜け出そうと、誰か救いの手はいないかと
周囲を見渡すと、カウンターに意外な、見知った姿があった。

「あっ、シンさん」

彼は俺行きつけの店のバーテンダーで
それゆえ香も顔は知っていたが、
情報屋までしているとはあいつは知らなかった。

「なんだ、こんなところにいたのかよ
こっちに加わりゃいいじゃないか
自分の店じゃないんだから」
「いえ、やっぱりこっちのほうが落ち着きますので」

そう香に一杯のグラスを差し出した。
シャーリーテンプル――もちろんノンアルコールのカクテル。
あいつは結局、そこに落ち着いてしまったようだ
彼と店のママを相手に、盛り上がる宴席を眺めながら。
そのとき、再び店の安っぽいドアが開いた。

「悪ぃ悪ぃ、遅くなっちまって
店閉めようと思ったら飛び込みのお客が来たもんだから」

とその遅刻の客は笑顔で言い訳を浮かべながら
慣れた手つきでコートを壁の洋服掛けに引っかけ
早くも掛けつけの1杯目をコップに注がれていた。

「あれ、ハンコ屋さんですよね……大ガードの近所の」

以前俺のハンコを注文しにいったから
香の記憶にあってもおかしくはない。

「まぁ、それは世を忍ぶ仮の姿ってやつで」

と「ハンコ屋」はにやりと笑いながら一杯目を呷った。

「裏じゃ腕利きの『ニンベン師』なんだよ、シゲさんは」
「ニンベン師?」

俺の紹介に香が首をかしげた。
ってホントこいつ裏稼業の人間かよ【苦笑】

「偽造の『偽』って人偏がつくだろ」

と空に字を書いてやれば、「ほんとだ」と呟く。

「パスポートや運転免許から、遺言状とかの偽筆まで
シゲさんの手にかかりゃなんだって作れるってわけだ」
「いや、それほどでも」

と謙遜するものの、現に「作って」もらった運転免許証が
何かに引っかかったことは一度も無いのだから。
要は、ここに集まったのは情報屋をはじめ皆
俺たちの仕事を陰で支えるその筋の『仕事人』ってわけだ。
そして、このタイミングで彼らがここに集ったのは――
香を、彼らと引き合わせるため。

しばらくはあいつを荒っぽい場に出すことはできないだろう。
出産後だってしばらくは子供から離れられないはずだ。
だが、共に銃弾と火の粉の下をくぐることだけが
シティーハンターのパートナーの仕事ではない。
敵のアジトに突っ込むためには、それを突き止めるまでの
地道な下調べが必要不可欠だ。そしてさまざまな裏工作のためにも
あちらこちらに手を回しておかねばならない。
それを、これからは香にやってもらうのだ。
それなら乳飲み子を抱えていても、やりようによっては
電話一本でできる仕事でもある。だが、そのためには
こうして顔つなぎをしておくことも重要だ。
総ては信頼関係で成り立つビジネスなのだから。

「――悪ぃな、轍っつぁん」

今回の席の幹事役として、その中心の
全体を見渡せる席に陣取る老情報屋のグラスに
敬意と感謝の一杯を注ぐ。
今夜の立案者は当然俺なのだが
それを気取られるわけにはいかなかった。
だからその意を汲んで、この場の連中に
声をかけてもらったのだ。

「いいってことよ、撩ちゃん
どうせ俺たちだけでも祝杯を挙げたかったとこだし」
「本当はもう少し早くやるべきだったんだろうな」
「パートナーのお披露目をかい?」

――お披露目、まぁそういう意味もあるんだろうな。

「俺たちに言ってくれりゃあ
派手な披露宴にしてやったのに」

と、注ぎ返すついでにどこまで本気か判らない
冗談をさらりと飛ばす。

「やめてくれよ、それだけは」

でも、結婚披露宴ってのも案外そんなものかもしれない
関係者各位にこちらが妻です、夫ですと
一気にまとめて紹介する機会でもあるのだから。

「ま、ここに来てようやく肚をくくったってとこか」

男女として結ばれてからも、どこかで俺の心は
揺れ続けていたのだろう。
パートナーとして、今まで以上に
仕事に関わらせるにしても
どこまで関わらせていいのかも含めて。
おかげで、くくる前にあいつの腹が
膨れはじめたわけだが。
だが、「シティーハンターの相棒」「冴羽撩の女」の上に
「冴羽の子の母親」という肩書まで加わるからには
もうどっぷり浸かってしまうしかなさそうだ、
あいつの手を汚さない範囲で。

「おーい、香ちゃーん」

と半ばおどけて空のグラスを掲げた。
確かにあいつは今夜のメインゲストだが
宴席の裏の目的が目的である以上
酔っ払いの輪の外で大人しくさせておくわけにはいかない。
すると俺の意を察したのか、その酔っ払いたちが
我も我もとグラスを持ち上げる。中にはまだ入っているのを。

「もぉ、しょうがないわねぇ」

と香はママから中瓶を受け取ると、その蓋を鮮やかに抜いた。
そして、これからはその一員となる有象無象の輩に
あいつらしく丁寧に注いで回る。
今でこそにこやかな笑顔を浮かべているが
一皮剥けば、事と次第によっては
俺たちにすら牙をむきかねない連中ばかりだ。
けれども、今の香ならそいつらとも
十二分に渡り合えると、俺は信じている。
昔から言うだろ、「女は弱し、されど母は強し」って。

http://mainichi.jp/select/news/20151113k0000m040024000c.html