1992.11/He Stroops to Conquer

「ただいまぁ」
「おかえり。夕飯は?」

どこの家でも帰宅時に交わされる、ありふれたやりとり。
でも、我が家が少し余所と違うのは
帰ってきたのが私で、出迎えるのは夫の槇村だということ。

「もちろんおなか空かせて帰ってきたわ」
「空腹のところ悪いんだけど
もう少し待ってもらえないかな」

キッチンで背を向けたまま彼が言った。
といってもテーブルの上にはすでに
いつもどおり美味しそうな料理が並ぶ。

「時間があったから、白菜を漬けようと思ってね。
スーパーで大きいのが良い値段だったから
しばらく窓際で干してたんだ」

手元を覗き込めば、漬物容器に敷き詰められた白菜の葉の上に
ぱらぱらと塩を振っているところだった。
ふっと、どこかで目にした一節が浮かぶ。

     漬物桶に塩ふれと母は産んだか

季語も、五七五七七の定型も持たない、いわゆる自由律俳句
惨めと紙一重の侘しさの中、それでもそこにしがみつこうとする
「男の沽券」のようなものに、思わずぞっとしたのを覚えている。
女は、望むと望まざるとに関わらず皆
漬物桶に塩を振るようにと生まれてきたのだから。
――でも、この句を私に教えたのは誰だっただろうか
こんな枯れ寂びた趣味の持ち主は、私の周りにいなかったような……

「その代わりこれ、先に空けてていいから」

と、槇村がテーブルの上に置いたのは
見慣れぬラベルのワインボトル。
そのコルクを、見惚れるような手さばきで開けると
グラスを濃紅色の液体で満たしていった。
それを一口含むと――

「えっ、何? これシャトー・マ――」

濃厚なフルボディ、しかし滑らかな口当たりと華やかな薫り
『ワインの女王』と呼ばれるにふさわしい逸品だが
それゆえ私だってそうそう飲んだことがあるわけではないし
まして公務員の安月給では――そう戸惑う私の顔を
覗き込む槇村の眼は、彼が今までそんな表情を浮かべたことが
あっただろうかというような、まるでいたずらっ子のような
にやりとした光を浮かべていた。

「やっぱり、さすが君なら引っかかると思ったよ。
でもこれはもちろんそうじゃないし、値段もたったの――」

――おそらく、私の眼には落胆と疑りが宿っていたに違いない
それは私の心の奥底にそのとき過ぎったものなのだから。

「そう言ったのが香だったら
君はそんな風に思わなかっただろうな。
こんな高級品と遜色ないワインを、手頃な値段で
見つけてくるなんて、きっと良い奥さん間違いなしだって。
でも俺だったら? 男だったら?
そんな紛い物を見つけてくるんだったら、男らしく
本物を定価で買ってきなさいよって」

そして、それを見逃す槇村ではなかった。

「――なぁ冴子。お前は俺に、いったい何を期待しているんだ?」

期待――それは私をずっと押し潰してきつづけた言葉だった。
女のくせに生意気だ、女は引っ込んでいろと
父を含め男たちから投げかけられる有言無言の圧力に
私は抗い続けてきたのだ。でもその私が、男の槇村に対して
一方的に「男らしさ」を期待してきたなんてお笑い種じゃないの。

こうして一緒に暮らし始めて、私はどこかで
彼に物足りなさを感じていたのだ。
署長職という激務の私に代わって、家事全般を
気にする素振りもなく引き受ける。でもその一方で
毎日定時で帰ってきて、私が帰ってくる前に
こうして夕飯の支度を万端に整えてくれる――
彼が今、籍を置いているのは本庁の特捜課
もちろん私の古巣だ、仕事の内容も熟知している。
当然、決して楽な職場ではない。にもかかわらず
彼が今こういうことができているのは――
干されている、ということは容易に想像できた。
だが、それに対する不満をおくびにも出さず
まるで内助の功とばかりに家事に尽くす彼を
見ているのが歯痒かった、そんなことはどうだっていい
あなたはもっと刑事という仕事に
自分を捧げるべきなんじゃないかと。

でも、それは所詮は私の勝手な押しつけだったのかもしれない
それを最も嫌っていた自分のことは棚に上げておきながら。

「言っておくが、俺は男の意地だとかプライドだとか
そんなものちっとも持ち合わせちゃいない。
そんなくだらないものにしがみついたって
何の役にも立たないからな」

ああそうだ、きっとそれは弱冠15歳の少年が
たった一人で、齢の離れた妹の面倒を見ようというとき
邪魔になったに違いないだろう。
年相応の少年の持つ見栄のようなものがあったなら
逆に親代わりの重圧に押し潰されてしまっていたはずだ
弱みを隠して、一人で総てを抱え込んで。
でも彼はそうしなかった。誰彼かまわず助けを請い
厚意にすがることができたからこそ
香さんを立派に育て上げることができたのだ。

「家のことだって、別に嫌じゃないさ。
香と暮らしてた頃からずっとこうしていたし
今、君の方が俺よりも忙しい以上
俺が相応の分を引き受けるのは当然だと思ってる
もちろん俺の方が忙しくなったら
君にはその分やってもらうけどね」

家事は外の仕事に応じて分担――それがまず最初に
生活を共にするにあたって二人が取り交わしたルールだった。

「それに、俺に対して『男を立てる』とか
そういうことはしてくれなくてかまわない。
ただ俺は、あくまで一人の『人間』として
君に敬意をもって接しているつもりだ」

そうしてもらった方が、誰だって気持ちのいいもんだろ?と
ワイングラスの向こう、彼が穏やかに微笑む。
その笑みに思い出した、あの言葉を教えてくれたのは
目の前にいる槇村だったと。

「ねぇ、あのお漬物だけど――」
「なんだい?」
「教えてくれたの、もしかしてお母様?」
「……ああ、『お母様』ってがらじゃないけどな。
ずっと入退院を繰り返してたんだが、その合間に
いろいろ教えてもらったんだ
料理のしかたとかアイロンがけのコツとか」

――きっと彼女は息子に、漬物桶に塩を振るようにと産んだのだ
世の母親たちとは違って、いつか世を去る自分に代わって。

「じゃあ今度、よかったら作り方教えてくれないかしら」
「君に?……もちろん、いいけど」
「いつかわたしが作らなきゃいけなくなるかもしれないじゃない」

そう、彼だってこれからもずっと今のような
「兼業主夫」に甘んじるつもりはないはず。
もし警察組織が彼の実力を認めて、それを求める時が来るなら
私は喜んで支える側に回るつもりだ。もちろん、今の仕事を
完全に手放してしまうつもりはないけれど。

それとも私に仕事を奪われるのが嫌? と困らせてみれば
思ったとおりの苦笑いを浮かべた。それでも否とは言わないだろう
何かに固執することは彼の辞書には無いはずだ。
プライドを捨てること、それこそが槇村秀幸のプライドなのだから。