1990.4.16/永遠の美女

北鎌倉なんて鄙びたところは俺たちには縁の無いと思いきや
シティーハンターの名前というのは、案外
上流階級なんて呼ばれる連中の間の方に
むしろよく知れ渡っているようだ。なので今日は
その一員たる依頼人との顔合わせのために
わざわざ新宿を離れ、ここまで出向いてきたのだ。

用事も済み、俺としてはとっとと帰ろうと思ったのだが
相棒の方が「せっかくこっちまで来たんだから
ちょっといろいろ見て回ろうよ」と言い出した。
申し訳ないが、侘び寂びというか
こういう抹香くさい風情は俺の好みじゃない。
蓼食う虫も好き好き、精進料理や湯豆腐も
悪くはないのかもしれないが、俺としては肉だよ肉!!
まぁもっとも、都会の“美食”に飽きた若いもっこり美人が
最近じゃこういうところに流れてきているという話だが。

そんな気乗りしない連れは放っておいて
香は一人、花の季節の名刹めぐりというわけだ。
って拝観料取られるんじゃないかね。
俺はというと、物言わぬ花よりも
ガイドブック片手の迷える「物言う花」たちを
心優しく、ついでに手取り足取り
導いてあげようと思っていたのに――

網代垣の続く小路には人の気配もありゃしない。
閑静な住宅街、といえば聞こえがいいが
まるで無音状態だとかえって耳鳴りがするように
こうも人っ子一人いないと何やら心がざわつき始める
普段が喧騒と欲望の渦巻く不夜城・新宿住まいならなおさら。
そんなわけでせかせかとポケットに手を突っ込んで
背中を丸めながら歩いていると

「――あっ」
「―――こちらこそ、申し訳ありません。不注意で……」

それはか細いながら、最近は死に絶えたと思えた
美しい日本語の響きだった。
こういうときばかりはつくづく己の
恵まれた体躯を恨みたくなる。
出合い頭にぶつかってしまったのが俺では
相手が老婦人では、トレーラーと乳母車みたいなものだ。
いくらもっこり対象外とはいえ、跪いて
手を取ってやらねば『種馬』の名折れ。

「けがは――ありませんか」

とっさに普段慣れない敬語が口をついた。
それだけ、地面にうずくまる老婦人のたたずまいには
得も言われぬ気品のようなものが漂って見えた。
齢の頃は70くらいだろうか、銀髪を小ざっぱりと結っていたが
長い睫毛が皺のよった目元に影を落としているのが印象的だった。
寄る年波を洗い落とせば、きっと西洋人形のような
顔立ちだったに違いない。
泥染めの大島紬に、黒繻子地に刺繍の帯
普段着というには上等だが
余所行きというほどのものでもない。
そして、全身全くの黒というわけでもないが
その取り合わせに、まるで――喪、という一文字が浮かんだ。

「いいえ、お気遣いなく。大したことありませんのよ」

そうにっこりと、老いて細くなったであろう目をより細めた。
その言葉は凛としていながら、まるで鈴を転がしたよう。
手を取って、抱きかかえるようにして立ち上がらせようとすると
――年をとると、人はこうも捉えどころが無くなってしまうのか
まるで天の羽衣をその手に載せたかのようだった
ふんわりと、おぼろげで、現かどうかすら覚束ない――

「ご親切にどうも、お手間を取らせてしまいまして」
「いや、ぶつかったのは俺の方ですから――」
「そのお心遣いだけ、受け取っておきますわ
それでは、お邪魔いたしました」

まるで古い日本映画の台詞のような言葉遣い
竹を編んだ垣の向こうには、その原材料がざわわと揺れる。
老婦人は俺の腕の中をするりと抜けだして
矍鑠(かくしゃく)と歩き出し、垣根の角を曲がる。

「――それとも、40年前にお逢いしたかったかしら?」

その声に、ふっと振り返った。
角の向こうには後ろ姿しかなかった
銀幕華やかなりし頃のように、艶やかな黒髪に
ウェーブを当てた着物姿の……

「――りょう?」

散策にも飽きたのだろうか、香がひょっこりと戻ってきた。

「あ、香か……いや、さっきな――」

と再び振り向くと、老女も、美女の姿もそこには無かった。

―――――

「――あ、グレタ・ガルボ死んじゃったんだ」

カーラジオのニュースに香は驚いたように声を上げた。

「どうせまだ生きてたんだって思ったんだろ」
「あんたこそどうなのさ」

とやましさをすり抜ける。

「だいたい、おまぁ見たことあるのか? 映画で」
「あったかな……だって、あたしの生まれる前に
引退しちゃった女優さんでしょ」

それどころか最後の出演作は真珠湾攻撃前だ。
たった35歳で彼女は虚栄渦巻くハリウッドから身を退くと
そのまま表舞台には二度と姿を現すことはなかった
――そのときにもう「女優グレタ・ガルボ」は死んだのだ。
その後、戦争が終わり、俺が生まれ香が生まれ
その間ずっと生き続けていたのは、ガルボの残影――
と言ってしまえば語弊があるか。

そのときふっと、脳裏に浮かんだのは
さっきの老婦人の姿だった。
彼女の時間もすでに、とうに尽きてしまっていたのかもしれない
こうして生き永らえていながらも。あの覚束なさも
残影に過ぎなかったといえば総て腑に落ちた。

ならばあの「幻」こそが彼女の「真実」だったのだろうか――
触れたときの、雲を掴むような感触とは裏腹に
あの声だけがやけにはっきりと鼓膜に今も響いている
――それとも、40年前にお逢いしたかったかしら?
それまでとは違う若々しい声で
そのとき彼女はきっと、笑顔のガルボのような
艶やかな表情を浮かべていたに違いなかった。

――ああ、逢いたかったさそのときに。

だけどそれも詮無い願い。
その一ときの、ありえぬ僥倖のような邂逅を振り切るように
クーパーのアクセルを踏み込んだ、新宿へと。

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