1989.11/Scar of Honor

温泉に行きたいとしつこく言っていたら
瓢箪から駒ということもあるもので、
珍しく撩が「連れてってやる」なんて言うものだから
1泊分の荷物をボストンバッグに詰めて
いそいそとクーパーに乗り込んだものの、
止まった先はアパートから数分と離れていない
ビルの真ん前だった。

「……十二社(じゅうにそう)温泉?」
「そっ。まっさかこんなビルの谷間に
本物の天然温泉が湧いてるなんてねぇ」
「前にアニキに同じことやられたような気がする」
「おや、そりゃ奇遇」

まぁ確かに温泉は温泉に違いない。
担がれたようだが、それは糠喜びしたあたしが悪い。
それ以上に釈然としないのが、何でこいつが
あたしもすっかり忘れていた
新宿の穴場スポットを知っているのかということだ。
もっとも、撩の情報網を以てすれば
容易いことなんだろうけど。

浴場はビルの地下にあった。
特徴的な真っ黒な湯はとろりと滑らかで
それだけで遠出しなくても充分温泉気分を味わえた。
そして何より、広い浴槽で手足を伸ばすだけで
(我が家の湯船も充分大きい部類に入るのだけど)
非日常の開放感を満喫することができた。
ただ、そのときだった。

一人の女性が、湯船に入ってきた。
前はタオルで隠していたものの
そのまま湯の中に入ることはできない。
なのでひょいとそのタオルを頭に巻きつけてから
黒い湯の中に身体を沈めたのだが
そのわずかな間に、何か大病をしたのだろうか
胴体の大きな手術痕が一瞬、目に飛び込んだ。
その傷跡の痛々しさに、思わずあたしも
それとは比べものにはならないはずの
盲腸の手術の跡を湯の中で押さえていた、
外からは全く見えないはずなのに。

そして――撩にこんなことをせがんだのを後悔した。
あいつの身体にはそれ以上に大小さまざまな
傷跡がいたるところに散りばめられていた。
小さな、もう古びて目立たないものは
湯煙に紛れてはっきりと見えることはないだろう。
だが、それでもなお人目を引くものは
3つ4つはあるだろうか。それだけで充分
倶利伽羅紋々は背負っていないものの通報レベルだ。

いったい、あいつはどんな気分で不特定多数の前で
素肌を人目に晒しているのだろうと
悶々とした気持ちで湯から上がると
すでに撩の方が先に休憩所で待っていた。
服はいつものままだけど、首からタオルをぶら下げて
もともと熱を帯びた身体は、そこから
湯気が出そうなほどに上気していた。

「ごめん、撩」
「いやいや、そんなに待っちゃいないさ。
あ、香ちゃんは風呂上りは牛乳派?」

と、目の前のテーブルに置かれた
飲みさしのジョッキをよそに席を立とうとする。

「ねぇ、人からじろじろ見られなかった?」
「そりゃあ、まぁな」

と明るく答えると、ジョッキに口をつけ
ぐびぐびと喉を鳴らすと、ぷはぁと
さも旨そうに息をついた。

「ま、さすがにこれだけのもっこりじゃ
目立つなって方が無理はあるわな」

――心配して損したorz

「あんた、前隠さないの?」
「そんな恥ずかしそうにしてたら
短小の持ち主ですって言ってるようなもんだろ。
立派なもの付けてるんだったら
そこは堂々と見せびらかさないと」

そういやこいつ、さすがに下まではそうそうしないものの
飲んでも飲まなくてもすぐ脱ぐのが悪いクセだった。
ということは、身体中にに刻まれた傷跡には
わだかまりは感じていないのだろうか――

そのとき、女湯で見かけた人を思い出した。
彼女もまた、自分の傷跡を恥じ入る様子はなかった。
むしろ堂々と、それを含めて自分だと言わんばかりに
自然体の様子で裸身を人目に晒していた。
きっと、撩もそうなのだ。
その傷跡は、あまりにも人とは違い過ぎる過去
そして現在の身の上までも雄弁にさらけ出している。
でも彼にとってはそれも含めての冴羽撩なのだ
敢えて申し開きすることもなく。

「そういや飯、どうする?」

ジョッキをすっかり空けてしまった後
まだコーヒー牛乳を瓶の半分ほど
残しているあたしに、撩がそう言った。

「ここでも食えなくはないけど
せっかくの『温泉来たつもり』なんだから
もうちょっとマシなところで食わねぇか?」

そんなことを言われてしまうと
小躍りするのを通り越して
何だか心配になってしまうくらい嬉しくて。

「ってことは和食?」
「ああ。この近くに旨い寿司食わせてくれる
店知ってるんだけど、腹の余裕は大丈夫か?」
「ねぇ、そこいくら丼も置いてある?」
「――なんでそこでもいくら丼なんだよ」