細腕&太腕繁盛記vol. 1 サイフォン

丸底のフラスコに、先の細くなったホーローのポットから
お湯を注ぐ。その前に、ガラス容器を丁寧に布巾で拭って
水滴を取り去っておくのは忘れない。
アームに容器を掛け、その下にアルコールランプを置く。
そこに火を点けるのにマッチを擦る一手間が何ともたまらない。
透明な器の中でこぽこぽとお湯が音を立てるまでの間
同じく丸みを帯びたガラス器の底にフィルターをセットし
そこに挽いたコーヒー豆の粉を入れていく。
完全にお湯が沸騰したタイミングで、いったんランプを遠ざけてから
ガラスのボールを重ねるように、お湯の入った器の上に
コーヒー豆の器を静かに挿し込む。そして再びアルコールランプを
ようやく本来の形になったサイフォンの下に滑らせると
――重力に反して、水は上の容器へと駆け上がり
琥珀色に染まっていった。
それを美樹さんが、カウンターの向こうでゆっくりと掻き混ぜる。

Cat'sでコーヒーを頼むときはいつも
サイフォンから一杯のコーヒーが生み出されるさまに
つい目を奪われてしまう。

「要は気圧の問題だろ。容器の中で水が沸騰すると
水蒸気が膨張するから、それに水が押されて行き場を無くして
しまいにゃ上に揚がるしかなくなっちまうってだけだぜ」

隣でスポーツ新聞を広げていた撩が雑学をひけらかす。

「判ってるよ、それくらい。前にアニキに教わったもの」

その原理が判っていても、優美な形の見慣れぬ器具と相まって
目の前で起きていることが、まるで錬金術か
魔法の妙薬作りかのように見えてしまうのだ。

「へぇ、お兄さんに教わったの?」
「うん。前に一度だけ、喫茶店に連れてってもらって」

思えばそれはそのとき一度きりだった。
まだ高校生だったあたしにとって喫茶店は
ちょっと背伸びをして足を踏み入れる場所であり
アニキにもそれは内緒のことだったのだから。

「そこもサイフォン式だったんだ」

サイフォンを火から外すと、冷えた水蒸気はしぼみ
押し上げられていたお湯はコーヒーとなって
重力に従い、下の器へと落ちていった。

「あ、そういえばそうね」
「ねぇ、香さんはいつも家ではコーヒー
どうやって淹れてる?」
「ウチじゃもっぱら、簡単にペーパードリップ
でも豆はその都度ミルで引くんだけど
それが面倒くさくって……」
「あら、それが一番良いのよ。コーヒーの粉って
挽いた瞬間から酸化しちゃうから」

でもお店じゃそこまでの贅沢はできないのよね、と
美樹さんが店の奥に視線を向けた先には
古めかしい形の――実際に年季の入った
業務用の電動ミル。でもそのデザインも味があって
いかにも喫茶店らしい雰囲気を醸し出している。

「それに、ペーパードリップだって充分本格的よ
ネルドリップと原理は同じだもの。
こだわってる店はネルフィルターを使うっていうんだから」
「じゃあなんで美樹さんはサイフォン式にしたの?」

丸いフラスコからカップへとゆっくりコーヒーが注がれる。
隣のサイフォンからも同じようにコーヒーが注がれ
そのカップは撩の前に差し出された。
あたしと撩とではコーヒーの好みもまるで違うから。

「そうねぇ、苦みや雑味が出やすいってデメリットもあるけど
セッティングの手間を除けば意外と簡単に美味しいコーヒーを
コンスタントに出せるっていうのもあるし、でも一番は
やっぱり見た目かなぁ」
「見た目?」
「そっ。サイフォンなんて持ってても、普通、家では
わざわざ引っ張り出して使ってりすることはあんまりないでしょ、
手間ばっかりかかるから。でもお店じゃこの手間がいいのよ
なんだかいつもと違う感じがしない?」

そう、サイフォンのプロセスに目を奪われてしまう
理由もそれなのだろう、きっと。
外で、自分が淹れる材料費以上にする額を払って
家で淹れるのと大して変わらないやり方っていうのも芸が無い。
でもサイフォンからコーヒーが生まれるまでの時間は
その一杯を家で飲むものとは全く違うものに変えてしまう。
それが、わざわざここに来てコーヒーを楽しむ理由の一つなのだ。

「ん〜、いい匂い♪」
「家でもここと同じ豆使ってるんだろ?」